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【九州三国志】立花宗茂、朝鮮の戦場にて猛将の名を轟かす!その戦、三千の兵が一万を凌ぐ力を見せた

華盛頓Webライター
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天正14年(1586年)、島津軍との戦いで父・高橋紹運の壮絶な最期を見届けた立花宗茂は、文禄の役においてその武勇をさらに発揮しました

文禄元年(1592年)、宗茂は小早川隆景率いる6番隊に2,500の兵を率いて朝鮮に出陣します

東萊城を攻略し、漢城北方では火計と釣り野伏せ戦法を駆使して朝鮮軍を撃退するなど、その巧妙な戦術は敵味方を驚嘆させました。

第一次平壌の戦いでも明軍を打ち破り、戦局を日本軍優勢に導いたのです。

さらに碧蹄館の戦いでは、宗茂は高橋統増と共に先鋒を務め、明軍や朝鮮軍を迎撃

鉄砲隊や奇襲部隊を駆使し、正面突破から側面攻撃まで自在に戦い、敵軍に多大な損害を与えたのです。

宗茂自身も馬上で長槍を振るい、敵将15人を討ち取る奮戦ぶりを見せたといいます。

この激戦の後、宗茂の武勇は「九州の逸物」から「日本無双の勇将」としてさらに広く知られるようになり、小早川隆景から「立花の三千は他家の一万に匹敵する」と高く評されました。

文禄2年(1593年)の晋州城攻防戦でも、宗茂の軍は釣り野伏せ戦法で朝鮮軍を破り、日本軍の進軍を妨害する大部隊を撃退するなど、大きな戦果を挙げたのです。

特に星州や咸安での戦いでは、宗茂は4,000の兵で朝鮮軍5万を退け、その武勇を改めて証明しました

こうした戦功により、秀吉は宗茂を「日本無双の勇将」と讃え、感状を与えたのです。

また、この功績により俸禄は13万石余りに加増され、軍役数も倍増するなど、宗茂は名実ともに豊臣政権下で抜きん出た存在となります

文禄の役を通じて宗茂は武力のみならず、知略や士気高揚の才でも名を上げました

立花軍の動きは敵軍の心理を鋭く突き、戦場での駆け引きを優位に進めたのです。

この時代、宗茂はその忠勇と戦術をもって日本軍の戦場を支え、後世に語り継がれる「東西無双の将」としての地位を不動のものとしたのです。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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