【九州三国志】千熊丸の決意、名家を継ぐ養子の道!立花宗茂の始まり、勇将への第一歩
永禄10年(1567年)、豊後国筧(現在の大分県豊後高田市)にて、吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として誕生した千熊丸。
幼名から弥七郎へと改めた彼は、父が高橋氏の家督を継いだことで、嫡男として期待を一身に背負い、成長を遂げました。
永禄12年(1569年)、大友義統から偏諱を賜り、高橋統虎と名乗り元服。
彼の人生はここから激動の戦国絵巻へと移り変わります。
天正9年(1581年)、宗茂としての初陣は壮烈でした。
立花道雪や父紹運に従い、秋月氏や筑紫氏を相手に奮戦。
150の兵を率いて敵の側面を衝き、勇将・堀江備前を相撲技で圧倒、討ち取るという豪胆さを見せつけました。
この功績が認められ、立花道雪は彼を養嗣子として迎えたいと希望します。
最初は断ろうとした父紹運も、道雪の熱意に折れ、宗茂は婿養子として立花家を継ぐこととなるのです。
この時、道雪の娘・誾千代との婚姻が結ばれ、彼は立花家の名を背負うことになりました。
養子となった宗茂の戦いは苛烈を極ました。
嘉麻・穂波での激戦や秋月・宗像連合軍との岩戸の戦いでは、鉄砲や伏兵を駆使して敵の包囲を打ち破り、原田氏の砦を攻略するなど勇名を轟かせたのです。
天正10年(1582年)には名を戸次弥七郎から立花左近将監へと改め、立花家の名跡を正式に継承します。
道雪の補佐を受け、軍を率いる将としての道を歩み始めたのです。
天正13年(1585年)、立花山城に攻め寄せた秋月種実の大軍を前にしても、宗茂はひるまず智謀と武勇で敵軍を撃退。
謀反の兆しを見せた家臣を粛清しつつ、夜襲や火計を用いて同士討ちを誘発、戦場を制しました。
だが同年9月、養父・道雪が病に倒れると、戦局は厳しさを増し、筑後での戦線は次第に劣勢へと追い込まれていきます。
激動の戦場を駆け抜けた宗茂。
その勇猛と知略の輝きは、やがて「日本一の忠義者」と称される武将としての礎を築くものでした。
立花家を継ぎ、戦国の乱世を生き抜いた彼の物語は、ここからさらに幕を開けます。