【九州三国志】白鳥山の騒乱と祐信の最期!義弘の策謀、木崎原に響く戦の終焉
元亀3年(1572年)、池島川に退却した伊東軍は、油断と夏の暑さにより休息中の緊張感を欠いていました。
この隙を見逃さなかった島津義弘は、斥候の報告を受けるやいなや出陣し、祐信の隊を奇襲。
大将・伊東祐信との一騎討ちを制し、三角田の地で討ち取ります。
この時、義弘の愛馬は膝を折り、祐信の槍をかわしたと伝えられるのです。
祐信の死を受けても伊東軍は崩壊せず、残存兵は本隊と合流して白鳥山へ退却。
だが、山中で白鳥神社の座主・光巌上人が僧侶や農民たちに鉦や太鼓を打たせ、伏兵を装ったことで伊東軍はさらに混乱しました。
これを好機と見た義弘は鎌田政年を背後に回し、正面から突撃するも敵の反撃に遭い一時後退。
その間、遠矢良賢ら6人が抑えとして奮戦し、義弘の隊を退却させたものの、彼らは全員戦死したのです。
義弘の隊は木崎原で加久藤城からの援軍を吸収し態勢を立て直すと、再び攻撃を仕掛けました。
島津軍の迅速な反撃に伊東軍は虚を突かれ混乱し、背後から鎌田隊の奇襲を受け、さらに五代隊の側面攻撃により壊滅状態に陥ったのです。
退却を図る伊東軍を村尾隊が本地原で襲撃し、総大将・伊東祐安が落馬して討ち死にします。
祐安の嫡子・祐次と弟・祐審らも新納忠元の手により討たれました。
戦いは島津軍の勝利に終わったものの、両軍ともに甚大な損害を被りました。
伊東軍は士分250余人、雑兵560人を失い、伊東家の内部崩壊を招く一因となったのです。
一方、島津軍も士分150人、雑兵107人を失い、戦場には死体が溢れ、4ヵ月経っても片付けきれなかったといいます。
戦後、義弘は戦跡を巡検し、負傷者を手当てしつつ首実検を行った後、飯野城へ帰還。三角田には六地蔵塔を建て、敵味方双方の戦没者を供養したのです。
義弘の配慮は、戦の激烈さの中にも彼の人間性を垣間見せるものでした。