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「ドライブ・マイ・カー」が絶賛される、深くて大きい理由

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
濱口監督に代わりインディペンデント・スピリット賞を受け取る山本晃久プロデューサー(写真:ロイター/アフロ)

 濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が、またひとつトロフィーを手にした。西海岸時間6日に行われたインディペンデント・スピリット賞授賞式で、国際映画賞を受賞したのである。

 この賞に投票するのは、フィルム・インディペンデントの会員。その名が示すとおり、インディーズのフィルムメーカーを支援することを目的とした非営利団体で、会員には監督、脚本家、それらを目指す人たちのほか、純粋にインディーズ映画を愛する人たちも含まれる。つまり、映画通の集まりであり、「ドライブ・マイ・カー」がここでも支持されたことは、まったく驚きではない。なぜなら、「ドライブ・マイ・カー」がこれほどまでにアワードレースを圧巻しているのは、「シネマとはこういうものだ」と、がつんと見せつけてくれるからなのだ。

「ドライブ・マイ・カー」がアメリカで連続して賞を取り始めて以来、筆者は日本のメディアからたびたび「なぜこの映画はアメリカ人に受けるのでしょうか」と質問を受けてきた。中でもよく耳にするのは、「村上春樹がアメリカでも人気があるせいか」「コロナで多くの人を失っただけに、喪失というテーマが心に響くのか」という分析だ。

 それらは、完全に間違ってはいないけれども、正しくもない。自分で考えてみていただければわかると思うが、有名作家の小説が映画になったからといって、その映画を必ず好きになるというわけではないだろう。それに、村上春樹の短編が原作だということは、批評記事の中で触れられるものの、そこを全面に打ち出して宣伝しているわけではない(というか、この映画は、アメリカで宣伝というものをほとんどしていない)。

 一方で、コロナが関係しているかという件に関しては、あると思う。だが、コロナで多くの命が失われたからというよりは、コロナでシネマという文化が消滅の危機にさらされるのを、業界人は不安な思いで見つめてきたからだというほうが近い。

「シネマは死んでいない」と教えてくれた

 これまでにも筆者は指摘してきたが、これらの賞でこの映画に投票したのは、批評家や映画の作り手である。批評を読んで見に行った結果、すごく気に入ったという一般人も多数いるとは思うが、興行的にはそんなに数字を上げていない。この映画に心をとらえられたのは、何を置いてもまず業界人なのだ。

 それら業界人は、近年、「シネマとは何なのか」と問いかけてきた。Netflixを筆頭にした配信会社が全盛期を迎え、巨匠と呼ばれる大物監督を誘致して自社製作の映画をどんどん作っていく中で、配信と劇場用映画の境目はどんどん薄れてきている。「Netflix作品がテレビの賞であるエミー賞は良い。でも、劇場用映画の賞であるオスカーに入ってくるのは違う」と一時は公言したスティーブン・スピルバーグですら、コロナの影響で自身がプロデュースする「シカゴ7裁判」がパラマウントからNetflixに移り、Netflixで手厚く扱ってもらって以来、態度を変えた。

 そこへ来て、文字通り、アメリカ人の生活からシネマが消えたのだ。コロナ禍でも「鬼滅の刃」が爆発的にヒットした日本にいると感覚的にわかりづらいかもしれないが、アメリカでは、長いロックダウンの間、映画館で映画を見るということが、事実上不可能だった。そんな状況で、公開を控える映画を抱える人たちは、先の見えないまま延期するのか、配信に出すのかの選択を迫られた。そうやって、劇場用だったはずの映画が配信に流れるのが普通になっていくうちに、シネマ、すなわち劇場用映画の定義がますます揺らいできたのである。

(Sideshow/Janus Films)
(Sideshow/Janus Films)

 そんなところに突然、「ドライブ・マイ・カー」が現れたのだ。アメリカの業界人がもつ映画の常識を破り、これまでに見たどんな映画とも違う、映画館でしか正しい形で堪能できない映画が。シネマは死んでいないと再認識させてくれる傑作が。

 上映時間が3時間あるということも、そこには関係している。もちろん、長いから良いというのではない。逆に、長いのは普通、マイナスだ。スーパーヒーロー映画など、多数のファンがすでについていて、その人たちをたっぷり楽しませたいというなら別だが、このような大人向けの話は、アメリカで作るなら、2時間が常識である。しかし、濱口監督は、そこにまったくとらわれず、「観客を退屈させるのでは」と恐れることもなく、自分の語りたい話を、語るべき形で語った。そして、それは観客を決して飽きさせないものだったのだ。一見スケールが大きいわけでもない話を3時間かけて語るという、ありえないことを大胆にもやってみせたかと思ったら、そこには思いのほかたくさんのものが詰まっていて、とても奥が深かったのである。

 たとえば、芸術家の個人的体験と作品は、どのように影響を与え合うのか。それは、芸術にたずさわる人たちが、昔から考察してきたことだ。また、ストーリーのインスピレーションはどんなところから出てくるのか。コミュニケーションについても問われる。同じ言語を話すからといって良いコミュニケーションを取れるということになるのか。さらに、自分自身、過去に向き合うということ。許すということ。立ち上がるということ。そういったことは、いちいちセリフで説明されない。だが、観客は、セリフがない中でも、肌で感じる。それはまさに、映画という芸術フォームだからこそできることである。

 これら沈黙のシーンも、映画の作り手や批評家を感心させる部分のひとつと言えるだろう。筆者も参加した先日のグループインタビューでも、ある記者が「喋っていないのに、そのキャラクターが何かを考えているということが伝わってくる。どのようにしてそれを達成するのか」と質問したのだが、濱口監督によると、映画には出てこない過去の部分についてもストーリーを書き、役者たちに実際に演じてもらうのだそうである。キャラクターの過去を体で覚えてもらうというのだ。また、映画の中で、演出家である主人公は、役者たちに感情を含めずにセリフを棒読みしながら覚えるよう指導するが、それは濱口監督自身の演出方法でもあるとのこと。最初から、たとえば「ここは怒ったシーンだ」というように決めつけて入るのでなく、ニュートラルな状態でセリフだけ完全に覚えておき、本番で自発的、自然な反応が生まれることを望むのだと、濱口監督は語っている。そういう背景の事情は、映画を見ている間にはもちろんわからないが、同じように映画を作ることを生業としている人たちは、後で知って、非常に興味深いと思うはずだ。

映画館で見なければいけない作品

 優れた作品には優れた結末が不可欠だが、今作はそこもしっかりと満たしている。エンディングにおいても、濱口監督は、細かい説明をせず、見た人に解釈を任せる。しかし、観客はそこに、新しい、前向きな人生が始まったことを目撃する。そうして、ここまでの3時間、登場人物たちと一緒に過ごしてきた時間が報われたことに、満足と感動を覚えるのだ。

 しかし、この気持ちを味わうには、映画館で見なければならない。それもまた、今作を「シネマ」にする。筆者の周囲でも、今作を絶賛する人は、みんな映画館で見ている。「実は途中でやめてしまった」とこっそりと告白してきたある記者仲間は、案の定、視聴リンクで見ていた。

 レンタルビデオが存在しなかった時代、映画というのは、映画館の席に座って、最初から最後まで通しで見るのが当たり前だった。シネマは、その前提で作られているのだ。観客は、その時間をその映画だけに捧げる。一旦停止して電話に出たり、トイレに行ったりせず、登場人物たちと同じ時間の流れを体感する。「ドライブ・マイ・カー」をそうやって見た人からは、「人生が変わった」という声も聞く。シネマには、そんな力があるのである。

 3週間後に迫ったオスカーで、今作がいくつの部門を制覇するかには、まだ今作を見ていないアカデミー会員のうち、どれくらいの人が劇場で見るのかもかかわってくるだろう。現実的には視聴リンクで見る会員のほうが圧倒的に多いと予測されるが、その人たちは、3時間、携帯を引き出しにしまい、部屋のドアを閉ざして、映画にだけ集中してくれるだろうか。そこは誰にもコントロールできないものの、これまでの賞の投票者たちを見るかぎり、期待できるのではないかと思う。

 境界線が薄くなってきたとは言っても、アカデミーは本来、劇場用映画を作り、その文化を讃える人たちの団体だ。だからこそ、「ドライブ・マイ・カー」は、4部門で候補入りするほどに彼らの心をつかんだのである。この後、受賞結果がどうなったとしても、この映画はすでに非常に重要なことを達成してみせたと言っていい。シネマには、まだまだ可能性がある。シネマは終わっていない。そんな希望を、日本からやって来たこの静かな作品は、映画の作り手たちに与えてくれたのだ。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「シュプール」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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