宇多田ヒカルのルーツ、母・藤圭子再評価の兆し 今こそ聴くべき”昭和の歌姫”の「怨歌」
宇多田ヒカルの最新作『Fantome』は亡き母・藤圭子に捧げた一枚
今年も残すところあとわずか。2016年を振り返る企画が各メディアで始まった。音楽シーンのトピックはというと、なんといっても宇多田ヒカルが9月28日にリリースした、約8年半ぶりオリジナルアルバム『Fantome』(ファントーム)の大ヒットだろう。素晴らしいアルバムだ。色々な人の色々な感想、評論がネット上に溢れているが、話題性も含めて“いい作品”ということが伝播しているからこそ、売れ続けているのだ。10月29日、オリコンアルバムランキングで、4週連続1位を記録したというニュースを受け、宇多田本人がTwitterで「4週連続1位になっちゃった。びっくり。しかし藤圭子の37週連続1位には遠く及ばぬわ笑」とつぶやき、愛する亡き母の大記録を紹介し、リスペクトの気持ちを表した。藤圭子の37週連続1位というのは、1970年3月に発売した1stアルバム『新宿の女』で、20週連続1位を記録し、その連続1位記録を止めたのは、何をかくそう同年7月にリリースされた自身の2ndアルバム『女のブルース』で、この作品が17週連続1位に輝き、合計37週連続1位という大記録を打ち立てた。40年以上前の話で、社会も文化も今とは大きく違う時代の記録とはいえ、それにしても凄い記録、人気だ。どれだけ藤の歌が日本で愛されていたかがわかる。そして娘の宇多田ヒカルの音楽も日本はもちろん、世界中で愛されている。才能溢れる素晴らしい母娘だ。
そんな偉大な母を意識して作り上げたのが『Fantome』である。宇多田はテレビの音楽番組でも、オフィシャルインタビューでもそう語っている。
「誰しも原点があって、私の原点は母だった。私の世界、あらゆる物、現象に彼女が何かしら含まれているのは当然じゃん?と。私の身体だって結局親から来ているものですから、まぁ当然かと思えるようになって。それまで悲しいと思ってたのが、急にそれで『ああ素晴らしいことだな』と。それを感じられるようになったんだから素晴らしいことじゃないかって思ったんですよね」(NHK『SONGS』/9月22日放送)。
活動を休止している間に、宇多田は出産、子育てを経験し、より母親を身近に感じ、そしてシンガー、表現者としての偉大さに、同じ表現者として尊敬の念が日に日に増していったのだろう。尊敬の念を抱かれる人は素直で誠実である。藤の、歌、ステージに真摯に取り組む姿勢、誠実さを改めて宇多田は感じたのではないだろうか。母親が人々の心に歌を届けていた“日本語の時代の日本”に想いを馳せ、また“想いを伝えるためには”という事に、改めて向き合うという真摯な気持ち、表現者としての原点に返る事ができたとびきり純粋な作品、それが『Fantome』なのではないだろうか。『Fantome』とは“幻”“気配”を意味するフランス語だ。今も自分に寄り添うように存在する母親の気配、匂い、温もりを心でリアルに感じ、そんな母親に捧げた一枚の壮大なバラードのような気がする。
藤圭子の歌手としての”凄まじさ”が伝わってくるライヴ盤集『藤圭子劇場』
『Fantome』を聴きながらそんな事を考えていたら、藤圭子の歌の凄まじさが伝わってくるライヴ盤がリリースされていた。それが『藤圭子劇場』(10月17日発売)だ。渋谷公会堂での「デビュー1周年記念リサイタル」から、’79年12月26日新宿コマ劇場での「引退リサイタル」まで、伝説の4公演を収録。’70~’80年代にLP盤として発売されていたものが、リマスタリングされ初めてCD化されたものだ。
藤圭子は1969年9月、18歳の時「新宿の女」でデビュー。黒のベルベットのスーツに白いギターを抱えたビジュアルは、強烈なインパクトを放ち、美人だが、少女のようなどこか儚げな姿が印象的だ。凛とした強さの中にも陰が見え隠れし、それでも強い光を放つ目、そしてなにより圧倒的な歌声に、老若男女が夢中になった。テレビ、ラジオ、街角、あらゆるところで彼女の歌が流れていた。’70年に放った「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」が立て続けに大ヒット。特に「圭子~」は彼女の代表曲になった。「十五、十六、十七と 私の人生暗かった」と歌い上げ、彼女が人知れぬ苦労を背負い生きてきた生い立ち、ヒストリーを知る聴き手は、彼女の実情とオーバーラップするこの一節に衝撃を受けるとともに、藤圭子という歌い手が持つ“凄み”に改めて触れ、熱狂していった。この曲は演歌ではなく“怨歌”と言われ、藤圭子の「負」の部分に共鳴、共感を覚える若者達を中心に爆発的に広がっていった。戦後日本の高度成長期の陰で、特に学生運動や安保闘争にエネルギーを傾け、その行動が、社会が豊かになっていくにつれ支持を失い、行き場をなくし焦燥感や虚無感に駆られ失意の中にいる若者の「負」の気持ちが、この歌に重なった。
藤圭子のデビュー当時のキャッチコピーは、”演歌の星を背負った宿命の少女”だった。しかし彼女の歌は「怨み節」ではあるが、歌詞に対して思い入れたっぷりに、前のめりになって歌い上げる、いわゆる演歌歌手の歌い方と違っていた気がする。直立不動といっていい姿勢で、客席を真っ直ぐ見据え、聴き手に媚びることも卑屈になることもなく歌い上げていた。
その美貌とは正反対のドスの利いた声は、“パンチがある”というひと言では収まらない魅力がある。力強くも愁いを感じさせてくれ、まるで喜びを哀しみが覆うような、切なさ、虚しささえ感じる声で歌われる歌達も、また秀逸なメロディ、アレンジのものが多い。そんな彼女の声、表現力、素晴らしいアレンジを存分に堪能できるのがライヴであり、ライヴ盤だ。
わずか10年で引退。ファンも当時のディレクターも絶賛する伝説のライヴとは?
『藤圭子劇場』に収録されている、’70年10月23日に東京・渋谷公会堂で行ったデビュー1周年記念公演『藤圭子演歌を歌う』は、ファンの間で“伝説のコンサート”と言われている。このコンサートについては、彼女のデビューから引退まで、10年間ディレクターを務めた榎本襄(じょう)氏は、『藤圭子劇場』に同封されている貴重な資料満載のブックレットの中でのインタビューで「僕の記憶ではこのステージが一番良かった。声も一番よく出ていたし声質も魅力的で、歌が輝いているとでも言いたくなるような張りもありました」と絶賛している。その言葉通り、瑞々しさと共に、デビュー1年というキャリアとは思えないどっしりとした存在感、全ての人の心の琴線に触れ、震わせるどうしようもなく愛おしい悲哀感を感じさせてくれる。
このコンサートの他にも『藤圭子劇場』には様々なコンサートの模様が収められていて、オリジナル曲のほかに「朝日のあたる家」「マイウェイ」といった洋楽のカバーや、当時のヒット曲のカバー、童謡なども歌っている。
浪曲師だった父親の影響、そして流しをやっていた経験、歌う事を宿命づけられたかのように、歌手デビューした彼女だが、惜しまれつつわずか10年で、その活動の幕を引いた。’74年に喉のポリープ手術を受け、その後声質が変わってしまったと悩んでいたという。このあたりの彼女の気持ちは、作家・沢木耕太郎が彼女にインタビューしたノンフィクション『流星ひとつ』(新潮文庫)で語られている。手術後の自分の声について「聞いていても歌っていてもつまらない」と苦しい胸の内を吐露し、さらに「出せるものは出し切った。だからもうやめていいんだよ」「藤圭子っていう歌手の余韻で歌っていくことはできるよ。でもあたしは余韻で生きていくのはいやなんだ」と、自分が思う100%の状態でなければ歌いたいくないという、歌い手としての信条に正直に生きた。歌に対して、情熱がなくなっていく中で、それでも歌うべきか歌わないべきか苦悩を重ね、出した答えが'79年の「引退」だった。その潔さも、彼女が伝説の歌手と言われるゆえんなのかもしれない。
そんな彼女のラストステージ、’79年12月26日新宿コマ劇場での「引退リサイタル」は感動的だ。最後の挨拶で彼女は「本当に幸せでした。今日の舞台を私の一生の思い出にして、そして新しいこれからの人生を、精一杯生きていきたいと思います」と、万感の想いを込めて語り、歌手生活にピリオドを打った。
『藤圭子劇場』は、そんな、歌を愛し愛され生きた彼女の“人生のリズム”を感じる事ができるライヴ盤だ。そして全編に、藤圭子という昭和を代表する素晴らしい歌手の、聴き手の心を震わせる“激情”と“悲哀”を感じる事ができる生々しい記録であり、貴重な作品だ。
10月9日放送の「ワイドナショー」(フジテレビ系)で、宇多田ヒカルのアルバム『Fantome』のヒットが話題になった時、松本人志(ダウンタウン)は「宇多田も良いけど藤圭子めちゃくちゃいいからね」と興奮気味に語っていた。そして他の出演者と共に「宇多田を聴くなら藤圭子から聴いてほしい」と口を揃え、その歌を絶賛したが、まさにその通りだ。今こそ藤圭子の歌を聴くべきである。
※『Fantome』の「o」はサーカムフレックス付きが正式表記