「将棋は本当に楽しいです」 豊島名人(29)が豊島六段(20)だった頃の名言
2011年。久保利明王将(35)に豊島将之六段(20)が挑戦する王将戦七番勝負がおこなわれました(肩書、年齢は当時)。
豊島六段は20歳という若さ。1962年に加藤一二三八段(後に九段)が登場した際の22歳という記録を抜き、史上最年少での王将戦七番勝負登場、王将位挑戦でした。
2011年1月8日・9日。徳島県鳴門市の大塚国際美術館において、王将戦第1局がおこなわれました。
久保王将は得意の中飛車から、緩急自在の指し回し。対して豊島六段は終盤、鋭い反撃を見せて熱戦となります。久保王将は正確に読み切って、その鋭鋒をかわしました。豊島六段の健闘は光った。しかし、終わってみれば、久保王将の実力が遺憾なく発揮された、という一局でした。
1962年。若き加藤八段は、円熟の境地にあった大山王将の前に敗れました。
2011年。若き豊島六段にタイトル獲得のチャンスは十分あるかとも思われました。しかし、久保王将は棋王も併せ持つ二冠のトップ棋士で、充実の時にありました。豊島六段は、久保王将の堅塁に跳ね返された格好となります。
豊島六段が対局に敗れた翌日。対局場となった大塚国際美術館・システィーナホールにおいて、ジュニア将棋大会が開催されました。
豊島六段は約70人ほどの少年・少女を前にして、こうあいさつをしました。
「将棋は本当に楽しいです」
そこで一呼吸をおいて、少しはにかみながら、こう続けました。
「昨日負けた私が言うのですから、間違いないと思います」
同行していた筆者は「さすがは将棋界の王道を歩む者」と思い、その言葉を書き留めました。
棋譜は後世に残ります。しかしそれ以外のことは、記者が書かないと残らないことがあります。
豊島六段、後の豊島名人の代表的な名言を書き残すことができたのは、筆者のささやかな誇りでもあります。
将棋を楽しく思い続けることの偉大さ
はたして将棋は、いつでも本当に楽しいでしょうか。
将棋ほど、負けて悔しく落胆するゲームは、そうはありません。将棋に負けて絶望し、将棋界が嫌いになり、将棋に負ける自分が嫌いになり、将棋そのものが嫌いになってしまう人の姿を、筆者はこれまでに何人も見てきました。
「将棋に負けることは苦しい。負けた後に努力し続けること、指し続けることは、楽しいどころではなく、苦しくて仕方がない」
少なからぬ人にとっては、そちらの方が実感に近いのではないでしょうか。
将棋界の真の強者は、逆境に立った時、そして手痛い敗北を喫した後に、その真価が表れます。
将棋を好きであり続けること。将棋を楽しいと思い続けられること。それは才能でもあるでしょうし、また、尋常ならざる努力の末に得られる境地なのかもしれません。
この時の王将戦七番勝負では、豊島六段は久保王将に2勝4敗で敗れました。難関の王将リーグを勝ち抜いて挑戦権を得たわけですから、豊島六段が当時既に、トップクラスに迫るほどに強かったのは間違いない。しかしそれ以上に久保王将が強かった、ということでしょう。
豊島さんはその後、何度もタイトルに挑戦しながら、羽生善治現九段や、久保利明現九段の厚い壁に跳ね返され続けてきました。
2018年。筆者は豊島八段(当時)にインタビューする機会がありました。
音をあげない。でも力を入れすぎない。常に自然体。 棋士・豊島将之 28歳。
豊島さんは常に高勝率ながら、あの時の王将戦以来、急所では何度も敗れ続けてきました。それでもなお、自然体であり続けてきた。腐らずに、将棋を楽しいと思い続けてきた。インタビューでは、それを再確認することができました。
ほどなく、豊島さんは棋聖戦五番勝負で羽生善治棋聖に勝ち、ついに初タイトルの棋聖位を獲得します。その後の充実ぶりは周知の通りで、王位、名人までも獲得し、あっという間に三冠となり、名実ともに将棋界の頂点に躍り出ました。
初タイトルの棋聖獲得から1年後。豊島棋聖は渡辺明二冠の挑戦を受け、1勝3敗で棋聖位を明け渡すことになりました。
タイトルを失った直後の棋士に、野暮な質問をする記者でいたくはありません。
それでも、いずれ機会があれば、改めて尋ねてみたいものです。
「豊島さんは大一番に負けた翌日、タイトルを取られた翌日でも、『将棋は本当に楽しい』と言えますか?」
返ってくる答えはおそらく、20歳の頃と、変わらないのではないでしょうか。