「映える」ポピュリスト、異例づくしの表紙から浮かび上がる山本太郎の本質
書店の雑誌コーナーにちょっとした異変が起きている。ファッション誌「GQ」とジャーナリズム系週刊誌「ニューズウィーク日本版」というジャンルの異なる2つの雑誌が同じ人物、それも政治家を表紙にした特集を組んだ。れいわ新選組の山本太郎だ。私は、夏の参院選から一貫して山本を日本に現れた左派ポピュリストと呼んできた。2誌の特集からポピュリストとしての彼の本質が浮かび上がる。
「映える」政治家、山本太郎
夏の参院選で落選した政治家がこれだけ注目されるのも異例ならば、政治家がジャンルをまたいだ雑誌の表紙をほぼ同時に飾るのも異例だ。一読して、思ったのは、山本太郎が「映えるポピュリズム政治家」であるということだった。
「GQ」は元ニューヨークタイムズ記者のジョナサン・ソーブルがルポルタージュを担当し、英語と日本語で原稿が掲載されている。「ニューズウィーク」は私が山本のインタビューと左派ポピュリズムをテーマにした論考を寄稿し、ドキュメンタリー映画で知られる森達也がメインの山本太郎論を書いた。
ポピュリズム、空虚な中心
その中で、私はオランダの政治学者カス・ミュデらのポピュリズム論を参照にしつつ、こんなことを書いた。ミュデはポピュリズムとは何かという問いを巡る学者たちの論争は続いてはいるが、ポピュリズムが「人民」の心に訴えること、「エリート」を糾弾する現象であることは概ね見解が一致していると指摘する。
その上で、ミュデらはポピュリズムをこう定義する。「社会が究極的に『汚れなき人民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意志の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」であると。
中心の薄弱さーー。ここにポピュリズムの本質がある。彼らの主張は、右派であれ、左派であれ、確固たる信念に基づく体型的な論理はない。良く言えば、融通無碍であり柔軟であるからこそダイナミズムを生み出すことができ、悪く言えば矛盾を抱え場当たり的になる。それこそがポピュリズムだ。
山本は私のインタビューで「右派、左派かなんていうのは、私にとっては重要ではない。それは人をカテゴライズするのに便利で万能なのかもしれないが、はっきり言ってどちらにも興味がない。私は右派でも左派でもなく、フリースタイル」とはっきりと語っていた。この発言にこそポピュリストとしての「山本太郎」が象徴されている。
ハイブランドと私服
もう一つ、彼を象徴しているのがハイブランドのコートを颯爽と着て登場した「GQ」の表紙だ。
山本は、おそらくGQ内で掲載されたようなコートやスーツに身を包むことに対して、政治家にありがちな疑問を抱いてはいないように思える。信念を持った左派政治家ならば、「このご時世にダンヒルの40万円近いコートを着て、表紙を飾れば有権者にどう思われるか?」「そんな高いものを着て出たら貧困に苦しむ支持者からどう見えるか」などと躊躇しそうなものだが、彼は襟を立てて表紙に登場する。
「有権者から嫌われないスーツ」を無難に着ることが至上命題になっている永田町の政治家たちとは異なり、元テレビタレントらしく、そして日本の政治家ではとても珍しくハイブランドのスーツも難なく着こなしている。その姿が表紙に「映える」のだ。こうした姿に対して、支持者からも批判らしい批判は聞こえてこない。
私たちの前には、普段から愛用しているデニムジャケットと白のポロシャツ、黒のジーンズにコンバースのオールスターという私服で登場し、そのまま表紙の撮影に臨んでいた。これもこれで「映える」。どんな服装であっても、彼自身に強いこだわりはなく、まさに「中心が空虚」ゆえにカメラマンの注文通りに振る舞うことができる。れいわフィーバーが一段落した10月に並んだ雑誌には、企画された意図以上に山本太郎というポピュリストの本質が写し出されているように思えるのだ。
強さを増すポピュリズムの風
彼が元民主党の馬淵澄夫とともに立ち上げた「消費税減税勉強会」には、22人の国会議員が参加した。ポピュリズムの風は、その強さを確実に増している。