「聖火リレー走りたい」丸山桂里奈 元東電勤務、福島を想ったW杯優勝 #これから私は
2011年3月11日、14時46分。未曽有の大地震が起きた瞬間、丸山桂里奈さんは東京都大田区の実家にいた。
東北地方が壊滅的被害に遭い、かつての勤務先・東京電力第一原子力発電所が電源喪失状態に陥ったことを知ったのは数時間後。陣頭指揮を執る吉田昌郎所長は元上司だった。
「仲間や知り合いに連絡を取ったけど、全然つながらなくて…。本当に心配でした」
そのわずか4カ月後、彼女が2011年女子ワールドカップ(W杯=ドイツ)なでしこ優勝の立役者となったことはいまだ記憶に新しい。あれから10年。当時日本に大きな希望を与えた彼女は、いま何を思うのだろうか--。
「プレーで元気づけるしかない」W杯ゴールへの強い意志
「水素爆発した第一原発を見て、特撮映画を見てるみたいな錯覚を覚えました」
2年前まで暮らしていた福島県大熊町の変わり果てた光景をテレビ越しに見つめながら、丸山さんは途方に暮れていた。「一体、どうしたらいいのか」「福島のために何ができるのか」…。思いは交錯するばかりだった。
……震災直後はどうしていたのですか?
「練習ができなくなったんで、大田区の実家近くで走り込みをしてました。家にいても煮詰まっちゃうし、自分1人で考えたいと思って。1日20キロくらいは走ったかな。もともと走るのは大嫌いだったけど、もう無我夢中。人生振り返ってもあそこまで集中した時はなかったですね」
……被災した仲間への思いもあって?
「そうですね。同僚や福島の人に対してできることはないかという一心でした。最初は無力さを痛感して落ち込んだし、サッカーができない葛藤もありましたけど、自分はサッカー選手。プレーを見てもらって結果を残すことで元気づけるしかない。そのためにできることをと思って必死に走りましたね」
……努力が実って代表メンバー入りしました。
「ノリさん(佐々木則夫監督=現大宮VENTUS総監督)が再開後のリーグ戦でプレーを見て選んでくれたんです。当時、私はなでしこメンバーではなく、入るか入らないかの瀬戸際の選手でした。あそこで自分を追い込んでなかったら選ばれてなかった。ピンチをチャンスに変えられたからかなと思いますね」
……滑り込んでいなかったら、W杯本番の準々決勝・ドイツ戦で決勝弾を叩き出すこともなかったですね。
「今、振り返っても『1週間くらい試合したくない』って思うくらいハードな試合でした。でも東電の元同僚が『ゴール決めてほしい』と言っていたし、『絶対に決めるしかない』と強い気持ちでいたんです。ノリさんも『決めるのはお前しかいない』と声をかけてくれました。それまでサッカーの神様がいるなんて思ったことなかったけど、ゴールを奪って勝った時、ホントに神様っているんだと感じましたね」
……決勝のアメリカ戦も凄まじかったです。
「アメリカもすごいメンバーで強かったけど、ドイツは別格。大人と子供がやってるくらいの差がありました。そこに勝って、決勝も乗り越えて優勝できたのは、被災した仲間や同僚たちに応援されたから。ホントに日本が1つになった大会だったとしみじみ思います」
後悔は、震災後吉田さんに会えなかったこと
帰国後、想像を絶するなでしこフィーバーが起きたこともあり、丸山さんが福島を再訪したのは翌2012年。かつて所属した東京電力マリーゼの本拠地・Jヴィレッジスタジアムに足を踏み入れると原発作業員のプレハブ住宅が立ち並び、見慣れた光景とは様変わりしていた。彼女は号泣し、しばらく呆然と立ち尽くしたという。
……大熊町には4年間住んだんですよね?
「はい、2005~2009年です。私は第一原発の所長付という部署にいて、午前中は仕事をして、午後からサッカーの練習をする生活でした。吉田さんは当時の技術所長。社会人になって最初にお世話になった上司で仕事では毎日一緒。食事や飲みにも連れていってくれました。女子サッカーがマイナーだったせいか、結果が出ないときなんかは特に『なんで午後から練習なんだ』という目で見る人もいて。肩身狭く感じているときにも、『サッカーに集中してればいいから』と吉田さんが励ましてサポートしてくれました。原発事故の時は『怒ってる人』と見られがちだったけど、本当にメチャクチャ優しい人だった。圧倒的に人望がありましたね」
……吉田さんには優勝報告できたんですか?
「W杯直後には何回かメールのやり取りをしたんですが、周りの人から『相当、大変だから』と聞いて少し遠慮したんです。2012年はロンドン五輪もあったので、メダルを取ってから報告しようと考えていました。でもその時点では病気がかなり進行していた。ご本人は『大丈夫』と言っていたようで、自分も『大丈夫なのかな』と思っていて…。会えないまま、2013年7月に亡くなられてしまいました。人生に後悔があるとすれば吉田さんに会えなかったこと。それは強く思います」
……吉田さんの言葉で心に残っているのは?
「『結婚するなら本当に好きな人としなさいよ』と言われたことですね。昨年結婚した本並(健治)さんにも吉田さんのことを話していたので、夫婦でぜひお墓参りに行って、結婚を報告して『元気です』と伝えたいです」
五輪、自国開催は大きな意味がある
震災、そして女子W杯優勝から10年が経過した今夏、1年延期された東京五輪が開催される。コロナ禍の今、五輪開催への批判も根強い。しかし、苦労に苦労を重ねて2004年アテネ五輪出場権を勝ち取り、2008年北京五輪で4位とメダルを逃し、ロンドンでようやく銀メダルをつかんだオリンピアン・丸山さんにしてみれば「選手が報われる形になってほしい」というのは切なる思いに他ならない。
……東京五輪についてはどう思いますか?
「コロナで大変な世の中ですけど、自分が選手なら開催してほしいと思います。過去3回五輪に行って『これが自分の国だったらもっといいだろうな』とずっと思っていたので、自国開催というのは本当に大きなこと。ここに選手人生を懸けてた選手もいますし、何とか実現してほしいですね」
……3月25日からは聖火リレーが始まります。
「本来なら昨年、私の誕生日だった3月26日にJヴィレッジから走るって話だったんで、何かの運命の巡り合わせだと感じていました。今年も機会があるなら走りたいですね。聖火リレーへの意見は人それぞれあると思いますが、私はなでしこ優勝メンバーが久しぶりに揃ってJヴィレッジから走れることには意味があると思っています。見ている人に大きな力を与えられるんじゃないかなと思うので、みんなで思いを込めて走りたいです」
……10年前もスポーツは人々に勇気や希望を与えましたもんね。
「ドイツ戦で私がゴールを決めた時、元同僚たちから『自分たちも復興に向けて前向きになって頑張る』と言ってもらったことは、本当に嬉しかったですね」
福島のためにできることを考え生きていく
……震災から10年経って思うこと、変化したことはありますか。
「10年とはいいますが、気持ちは当時から変わっていないし、一生変わることはないと思います。日々の生活で人の気持ちも薄れてしまうと思いますが、福島は復興したと言い切れないのが現実です。東電で働いていたこともあり、身近に事故で亡くなったり被害に遭った方がいる中で生きてきた自分は1日たりとも福島のことを忘れたことはない。福島に体半分を育ててもらったような感覚で、そこが欠けたような、体の中のピースが1個足りないような喪失感が今も残っています。これからも福島のために何ができるかを考えながら、ずっと生きていくつもりです」
……ご自身の活動をどう考えていますか?
「代表の仲間は引退して指導者や解説者になったりとそれぞれ道は違います。私は『元なでしこジャパン』としてメディアに出ています。この肩書を通して幅広く発信して、サッカーに恩返しができたらいいなというのが本音です。それが今の自分にできることなのかなと。Jヴィレッジにも昨年、イベントで行ったりしましたけど、町を元気にするために何度でも足を運びたいと思っています」
テレビを通して明るく弾ける姿が印象的な丸山さんだが、福島を愛し、役に立ちたいと思う気持ちは、時が経過すればするほど強まるばかりだ。震災の痛みや辛さ、サッカーやスポーツの素晴らしさを伝えられる数少ない存在として、彼女はこれからも自分らしいスタイルで活動を続けていく。
■丸山桂里奈
元サッカー選手。1983年3月26日生まれ、東京都出身。ポジションはFW。2002年、『第14回アジア競技大会』の北朝鮮戦で代表デビュー。五輪はアテネ、北京、ロンドンの3大会に出場。11年、『FIFA女子ワールドカップ』で優勝を飾る。準々決勝ドイツ戦では決勝ゴールを決める。16年9月、引退を発表。その後、タレントとして活動。20年9月、元サッカー選手の本並健治と結婚。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】