【九州三国志】門司城を巡る熾烈な攻防!毛利と大友、九州北部を賭けた戦乱の軌跡
永禄元年(1558年)、毛利元就は水軍を駆使し、小早川隆景の指揮のもと門司城を攻略しました。
石見の戦いを展開中だった元就が、海上からの奇襲で門司城を奪取したとされます。
これにより、毛利勢は関門海峡の制海権を確保し、西国支配の足がかりを固めました。
一方、大友義鎮(宗麟)は失地回復を目指し、同年10月に1万5千の軍勢を派遣。
門司城を奪還するため、田原親宏や戸次鑑連(立花道雪)らが激戦を繰り広げ、15日には毛利軍を退却させました。
これにより門司城は再び大友氏の手に戻り、第一次柳ヶ浦の戦いと称されます。
翌永禄2年(1559年)、大友氏は豊前・筑前の制圧を進めるべく、将軍足利義輝から守護職を与えられ、北九州攻略を本格化します。
しかし、毛利元就もまた諸将を調略して豊前・筑前の地に反旗を翻させ、門司城を再び奪還しました。
この間、毛利水軍は海上封鎖を行い、乃美宗勝の活躍によって大友軍の退路を断ち、義鎮軍を苦しめました。
9月、大友勢は再び門司城攻撃を仕掛けます。
田原親宏や佐田隆居らが奮戦し、一時は門司城の占拠に成功しましたが、毛利隆元率いる援軍がすぐに反撃を開始。
小早川隆景と村上水軍が連携して攻勢をかけ、10月初頭には門司城を奪回しました。
この戦いでは両軍の水軍が主導権を握り、毛利氏が関門海峡の制海権を再び掌握する形となりました。
永禄の門司城攻防は、関門海峡を巡る戦国期の熾烈な争いを象徴しています。
大友氏と毛利氏の攻防は互いの勢力圏を奪い合い、一進一退を繰り返しました。
門司城の奪取と喪失を重ねる中、毛利氏の水軍力が大友軍を圧倒したことで、最終的に門司城は毛利氏の手に戻ることとなります。
この戦いは、西国における両雄の覇権争いを象徴する激闘であり、門司城はその焦点として戦国史に名を刻みました。