【九州三国志】剣豪にして外交の名手、松浦鎮信!文武両道に生きた平戸藩祖の生涯
天文十八年(1549年)、松浦隆信の長男としてこの世に生を受けた鎮信は、幼き頃より剣術と和歌を嗜む才気煥発な少年でございました。
永禄三年(1560年)には塚原幹勝に剣術を学び、その剣の腕前は晩年にも竹屋重勝から秘儀を伝授されるほどでありました。
永禄十一年(1568年)、大友義鎮から武具を賜り元服を迎えると、鎮信は父から家督を譲られ、若き当主としてその責務を担います。
その治世の初め、鎮信は相神浦を巡る合戦において勝利を収め、大村純忠との和議を成し遂げるなど、肥前の地でその名を知らしめました。
しかし、龍造寺隆信の勢力台頭によりその傘下に入ることを余儀なくされるも、天正十二年(1584年)、隆信の戦死を機に独立を果たします。
この頃、平戸にはスペイン船が来航し、鎮信はこの訪問を迎えつつ、肥前の安定に尽力いたしました。
天正十四年(1586年)、鎮信は豊臣秀吉への貢物をいち早く献上し、広田城合戦では敵軍を退ける武勲を立てます。
その後、父と共に九州平定にも参陣し、所領安堵を望んだ謙虚な姿勢で秀吉の信頼を得ました。
そして文禄・慶長の役では、朝鮮通として嚮導役を務め、24戦無敗という驚異的な戦歴を築きました。
家臣の多くを失う苦難の中でも、鎮信の指揮の下、領内に帰化した陶工たちは三川内焼の礎を築くこととなります。
関ヶ原の戦いにおいては、東軍に与し平戸藩の礎を固めます。
また、鎮信の外交手腕はオランダやイギリスとの貿易再興にも発揮されました。
リーフデ号の漂着を機に独自の船を建造し、貿易の交渉を進めた鎮信は、慶長十四年(1609年)に平戸にオランダ商館を開設、イギリス商館もその数年後に設置され、平戸貿易は一時の繁栄を取り戻したのです。
晩年、鎮信は領内の安寧と発展を願い続けつつ、慶長十九年(1614年)、その生涯を閉じました。
その遺された像は、最教寺に今なおその偉業を伝えております。剣豪にして文武の道を極めた松浦鎮信。
その生涯は、戦乱の世にあって武と和を両立させた稀有な武将として後世に語り継がれることでございましょう。