【光る君へ】紫式部と藤原道長と源倫子のフクザツな心情。本妻と妾の争いはあったのか?(家系図/相関図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の小説『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)とのラブストーリー。
長保元年(999年)、前年に結婚したまひろ(紫式部)と藤原宣孝(演:佐々木蔵之介)の関係に暗雲が立ち込める。気分転換のつもりで出かけた石山寺で、ばったり出会った人は…。
ここから先はネタバレになるので、注意して読み進んでほしい。
◆道長の栄華は誰のお陰?
◎「道長のそばで生きる」ということ
手を合わせるまひろの前に現れたのは道長。最後に会ったのは越前に発つ直前の長徳2年(996年)だったため、約3年ぶりの再会である。
夜の寺院の庭を並んで歩きながら話す二人。やがて一度は別れかけるも、走って戻りまひろを抱きしめる道長。そして二人は再度結ばれる。
道長はまひろに「もう一度自分のそばで生きることを考えてみないか」というが、まひろは断る。「オレはまた振られたのか」
この「道長のそばで生きる」という言葉は意味深である。史実では、のちに紫式部は道長の娘・中宮彰子(演:見上愛)の女房となることがわかっているからだ。
彰子の父である道長とも日常的に顔を合わせることとなる。それはつまり、いずれまひろは「道長のそばで生きる」ことになるのである。
◎道長が権力者になれた理由
藤原道長が権力者の地位に昇りつめることができたのは、姉である東三条院(演:吉田羊)のバックアップや娘・彰子の産んだ男子らが帝位についたことなどがまずは挙げられるだろう。
同時に、正妻・源倫子(演:黒木華)の実家の財力と、彰子サロンの中心的女房だった紫式部の存在も道長の出世には欠かせないものだった。
道長は彰子の後宮に和歌や漢文に秀でた女房をそろえて「文学サロン」を形成することで、一条天皇の寵愛深い定子(演:高畑充希)の後宮に対抗しようとした。
特に、都中の話題の的となっていた『源氏物語』の作者である紫式部の果たした役割は相当なものだった。道長の栄華は、紫式部なくしては成立しなかったと言える。
このあたりの詳細は、過去の記事に詳しい。(関連記事:【光る君へ】藤原道長の大出世の陰で彼を支えた「4人の女性」とは?(家系図・相関図) 5/11(土) https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b430b57f1630b463d4ac6f3e0edf745d35271dce)
◆紫式部「道長の妾説」はどこから生まれた?
◎南北時代成立の系図集に「道長妾」と記載
さて、ここで問題となるのが、道長と紫式部の関係である。実はこの2人の関係にはさまざまな説や解釈がなされていて、研究者の間でも定説となるものはないようだ。
しかし、紫式部が道長の愛人(妾)だったという説は根強い。その理由の一つに、南北朝時代後期成立の系図集『尊卑分脈』に紫式部が「御堂関白道長公妾云々(=道長の妾だったといわれている)」と書かれていることが挙げられる。
しかし、『尊卑分脈』は1390年代頃成立で、道長や紫式部の生きた時代からは400年近く後のこと。のちの世の人が推測で書いた可能性は高い。
◎紫式部の親友も道長の妾だった?
ではなぜ、紫式部は道長の妾だと推測されるのか?
道長には妾だったといわれている女性が数人いて、そのほとんどが、娘に仕えた女房である。だから彰子の女房だった紫式部も、妾だった可能性があるのだ。
道長の妾を順にあげていくと、まず、紫式部の親友である小少将の君の姉で「大納言の君」と呼ばれた源簾子(やすこ)がいる。
この姉妹は道長の正妻・倫子の姪に当たり、高貴な身分である。しかし父が早くに出家してしまったため、従妹にあたる中宮彰子の女房となった。
大納言の君だけでなく、小少将の君も道長の妾だったという説がある。だとすれば、紫式部は親友とライバルだった可能性もある。思慮深く聡明な紫式部が好んでそのような修羅場に足を踏み入れるだろうか。
◎ワケあり女性も手元に置く、六条院的道長
道長の妾はほかに、藤原為光(演:阪田マサノブ)の四女・儼子(たけこ)と五女・穠子(じょうこ)がいる。この二人は道長の娘で三条天皇の中宮姸子の女房である。
花山天皇(演:本郷奏多)寵愛の女御・忯子(演:井上咲楽)は儼子と穠子の姉に当たる。
儼子は四の君と呼ばれ、花山法皇の妾になったため、三の君(演:竹内夢)のもとに通っていた藤原伊周(演:三浦翔平)との間に長徳の変が起きた。
道長はそうした「高貴だがワケありで美しい女性」を娘の女房に取り立て、ついでに妾にして面倒を見たとも考えられる。『源氏物語』で光源氏が六条院をつくり、関係を持った女性をすべて住まわせたのに似ているかもしれない。
あとは道長の妻・明子(演:瀧内公美)や円融天皇(演:坂東巳之助)らの従兄弟に当たる源重光の娘も道長の妾だったと伝わる。
道長の娘たちの女房と妾の関係をわかりやすく系図にしてみた。
◎道長と紫式部の間に交わされた艶っぽい和歌の意味
紫式部と道長のが愛人関係だったと推測されるのは、紫式部自身が、道長との間に交わされた意味深な歌について「紫式部日記」に書き残しているからである。
道長は「酸っぱくて美味な梅の実の枝を折らない人はいないように、好きもの(酸きもの)のあなたを放っておく男はいない」と、紫式部をからかう。
『源氏物語』のような恋物語を書いている式部は、さぞかし恋愛経験豊富なのだろうというわけだ。
それに対する紫式部の答えは「まだ折られたこともないのに(男性経験もないのに)、誰がそんなことをおっしゃるのでしょう」。
すでに子もある身でありながら、なかなかの歌いっぷりである。
夜に紫式部のもとを訪ねたものがあったという。恐ろしくて式部は戸を開けなかったので、誰だったかはわからないまま。
この流れでは「もしや道長?」と推測する人が多かったのだろう。残念ながら、これ以上は日記にも書かれていない。
ここまでの理由から紫式部が道長の妾だったと推測されたようである。
実際のところは不明だが、『紫式部日記』には道長を「立派だ」と褒める言葉が並び、少なくとも式部が道長に好意を持っていたことは確かなようだ。
『源氏物語』の訳者でもある瀬戸内寂聴さんは生前「夜に訪ねてきたのは道長。このときは開けなかったけれど、次は開けて、何回かは関係を持ったのではないか」と語っていたという。
◆源倫子と紫式部の微妙な関係
◎アンチエイジングのすすめ~気遣いか意地悪か?
大河ドラマでは親戚として若い頃から交流のあったとされる、道長の正妻・倫子とまひろ。
『紫式部日記』には倫子も何度か登場するが、中には意味深な話もある。
9月9日の重陽の節句には、菊の露を含ませた綿で顔や体をふいて若返りを願う風習があった。
寛弘5年(1008年)のこの日に、倫子から紫式部に「老化をふき取りなさい」と露が贈られたという。
紫式部は少しだけ拭いて「奥様の方こそお使いください。どうぞ1,000年も若返ってくださいませ」と歌を添えて返そうとしたが、すでに使いは帰ってしまっていた。
倫子は紫式部より10歳ほど年長。このとき倫子は45歳、紫式部は30代半ばである。
現代の感覚とは異なり、2人とも50~60代のイメージ。「若返り」はどちらにとっても切実だったようである。
このエピソードも研究者によって見解はさまざまである。
道長の妾である紫式部への「あなたももう年なんだから、頑張って若返りなさい」という痛烈な意地悪に、式部も負けずに「奥様こそ、せいぜい若返ってくださいな」と言い返したとする説。
しかし、当時は正妻が妾に嫉妬するのは見苦しいとされていた。倫子は道長に幾人も妾がいても動じなかったともいわれる。
2人はドラマ同様に若い頃から親戚付き合いがあり、気軽に冗談を言い合える関係だった、という説もあるのだ。
◎ポイントは漢詩?倫子がまひろと道長の関係に気づく日は来るのか?
ドラマの『光る君へ』では、非常に勘の鋭い女性として描かれる倫子。もう一人の妻・明子ではなく、道長の心の奥に「第3の女」を感じ取って嫉妬する。
思い悩んだ倫子が、まひろに「どう思う?」とまひろ自身が道長へ贈った漢詩を見せるシーンは、『光る君へ』の中でも相当にスリリングなシーンだった。
ここから先は、筆者の勝手な推測である。
この勘のいい女性が、夫とまひろが一緒にいるところを見て、何も気づかないはずがない。
もしや、となったときに「そういえば、あの手紙は漢詩だった」と思い出すのではないか。「漢詩の得意なまひろ」が「道長の想い人」だと確信するのではないだろうか。
『源氏物語』を読んで気づくという意見もあるようだが、『源氏物語』はかな文字で書かれるため、もしかしたら漢詩とは違って見えるともしれない、とは思う。
道長からの情熱的な和歌に対して、あくまでも冷静であろうと漢詩で返歌をした、まひろの想い。「漢詩」にはそれだけでなく「まひろ」を象徴するような、重要な意味があったのかもしれないのである。
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
◆主要参考文献
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)
源氏物語(与謝野晶子訳)(角川文庫)
藤原道長「御堂関白記」(訳:倉本一宏)(講談社)