【光る君へ】藤原道長の大出世の陰で彼を支えた「4人の女性」とは?(家系図・相関図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)とのラブストーリー。
兄の道隆(演:井浦新)、道兼(演:玉置玲央)が2週連続で薨去し、ついに道長に政権の座が転がり込んできた。ドラマの当初、右大臣の三男坊だった道長が政権を握ることになるとはと周りも本人も予想だにしなかっただろう。
人生とは、思いもよらぬことが起きるものである。世間が驚くような変化には、人知を超えた大いなる力が働くものだ。とはいえ、彼の出世の陰には女性たちの力があった。そんな4人の女性たちについて解説する。
◆皇太后(女院)・藤原詮子(あきこ)
◎憎みつつもしっかり父の血を引いていた詮子
【藤原詮子とは?】
藤原詮子(演:吉田羊)は道長の姉。円融天皇(演:坂東巳之助)の女御(身分の高い側室)で、現・一条天皇(演:塩野瑛久)の母。一条天皇の即位と同時に皇太后に立つ。円融天皇の崩御で出家し、史上初の「女院(にょいん)」と称される。
なんといっても、執政者・藤原道長を生み出した立役者といえばこの人。この人にかわいがられて引き立てられなければ、道長は政治のひのき舞台に立つことなく、下手すれば道兼薨去時の官職・大納言で打ち止めになっていたかもしれない。
ドラマ内の詮子は、父・兼家(演:段田安則)の謀略に反発していたが、その策士ぶりはもしかすると、父の血を一番濃く受け継いでいるのではないか。
特に一条天皇即位以降の彼女の暗躍を見ると、しっかりとした後ろ盾のある皇太后の権力の大きさには目を見張るものがある。彼女は道隆の後継は道兼、道兼の後継は道長と、自分の意志を押し通してしまった。
父帝(円融天皇)亡き今は、一条天皇に直接意見を言えるのは母后である彼女しかいないのだから、当然といえば当然である。
彼女には「あんたたち(父や兄たち)が偉そうな顔をしていられるのも、わたしが皇子を産んだおかげじゃないの」という想いがあったのだろう。
◎道隆・伊周が失敗した理由
入内(じゅだい=天皇の妻になること)した女性は、「家」「一族」のすべてを背負っているのである。そのプレッシャーに打ち勝ち、詮子は男子を産み、その子は無事に天皇になった。
そのおかげで兄たちが権力を欲しいままにするなら「わたしにそれ相応の敬意を払うべき」と考えるのも当然である。その点、道隆やその子・伊周(これちか・演:三浦翔平)は間違えたのだ。
一条天皇に近づきたいなら、母である彼女を通すべきだった。しかし道隆も伊周も彼女を無視して、天皇の寵妃であり娘(妹)の皇后・定子を介して天皇を取り込んでしまった。
一条天皇と定子が和やかに遊んでいるところへ、詮子が眉間にしわを寄せて登場した際にはネットでは「嫁姑戦争勃発」と沸いたが、詮子の心中は、そんなに単純なものではなかったのだ。表向きだけでも、彼女を蚊帳の外に置いてはいけなかったのである。
◆源倫子(みなもと ともこ)
◎先行き不透明だった道長を支え勝利に導いた
【源倫子とは?】
源倫子(演:黒木華)は道長の正室。宇多天皇のひ孫。道長とは夫婦仲がよく二男四女を産む。中宮・彰子の母。90歳で薨去。
政権を握るためには、まず血筋や家柄がよいことは必須である。ただそれでけではなく、さらに「周りを納得させる」要素も必要となってくる。有能さや政治力、人柄、そしてもちろん「経済力」は重要だ。
一般的に、平安時代の貴族の結婚は「婿入り」だった。夫は妻の家に住み、妻の家で用意した装束を身に着けて出仕(通勤)した。経済力のある妻ならば、常に夫にバリッとした服装をさせることはもちろん、有事の根回しなどに惜しみなく財を注ぎ込むこともできる。
道長の成功の理由の一つは、倫子の実家のバックアップのおかげ。実際倫子にはそうした自負があったようである。
『紫式部日記』には、「自分と結婚できて倫子は幸せ」と発言し、倫子を怒らせて(あきれさせて?)慌てて追いかける道長の姿がえがかれている。この時代に珍しく道長と倫子は対等な関係、いや道長はやや尻に敷かれていたのかもしれない。
ドラマ内でも描かれたが、そもそも倫子の父・雅信は娘を入内させるつもりでいたため、道長との結婚には反対だった。当時政権は父兼家が握ってはいたが、後継ぎは長男の道隆。三男の道長が出世するとは到底思えなかったからである。
◎道長が「三男」だったことは不運?幸運?
ただもしかすると、道長の運がよかったのは、逆に彼が三男だったことかもしれない。
道隆の正室・高階貴子(演:板谷由夏)の家は下流貴族の家系である。彼女が道隆の正妻になれたのなら、まひろ(紫式部)だって道長の正妻になれたのではないか?と考えてしまうレベルだといえばわかりやすいだろうか。
しかし、長男である道隆と三男の道長の結婚時期には10年以上の開きがあり、道長が結婚するころには父・兼家は摂政になっていた。摂政の子の正室が受領(地方の国司)の娘というわけにはいかなかったのだろう。倫子との結婚も兼家の地位ありきで決まったものなのだ。
おそらく道長は自分の娘を入内させて、道隆の娘・定子と争わせる気持ちは十分あっただろう。
兄・道隆の娘に勝つためには、血筋がよく経済力のある母を持つ娘しかない。倫子の産んだ娘ならば、血筋も後ろ盾も申し分ない。そう考えた道長が選んだのが倫子だったのだ。
◆中宮・藤原彰子(あきこ)
◎わずか12歳で「皇子を産む」ミッションを課される
【藤原彰子とは?】
藤原彰子(演:見上愛)は道長の長女(母は源倫子)。一条天皇の中宮。敦成親王(あつひら・のちの後一条天皇)、敦良親王(あつなが・のちの後朱雀天皇)の母。彼女の後宮は、紫式部はじめとする才気ある女房の集う文学サロンとなる。87歳で崩御。
彰子はわずか12歳で一条天皇に入内。その後も過酷な運命が彼女を襲う。彼女の従姉にあたる皇后・定子は、お産がもとで崩御。わずか13歳で定子の遺児・敦康親王の養母となるのだ。
ここにも道長の打算が働いている。一族にとっては姪である定子の子・敦康親王は重要な存在である。彰子が皇子を産むまでは、敦康親王を「持ち駒の一つ」として温存することは、一族が生き抜く「戦略」として必要だったのだ。
彰子は入内後、9年もの間懐妊せず、道長をやきもきさせた。ここ数週、道隆や伊周が定子に「皇子を産め!」と詰め寄るシーンがあったが、あそこまでではなくとも、道長は娘に相当なプレッシャーを与え続けていただろう。
◎道長の栄華は彼女の産んだ皇子のお陰
入内しても懐妊するとは限らず、生まれる子が男子とは限らない。それよりまず、この時代、無事出産できるかどうかすらわからないのだ。皇子が生まれるまでに立ちはだかるハードルを思うとめまいがしそうである。
彰子には、定子の身に起きた「悲劇」も、まったくの他人事とは思えなかっただろう。夫である一条天皇がいまだ亡き定子に心を残していることも彼女にはわかっている。
中宮という女性最高の地位に昇りつめても、常にそうした不安の中に置かれていたのだ。
のちに彰子は無事2人の皇子を産んだ。彼女の産んだ皇子たちがいずれも天皇となったことで、道長は政治的に強大な影響力・権力を手に入れることができた。
彰子の子・後一条天皇が即位し、彰子が30歳で太皇太后となったときのこと。このとき三后(中宮・皇太后・太皇太后)全員が道長の娘たちで占められ、道長は摂政となり栄華は絶頂期を迎えた。
彼女が2人の皇子を産まなければ、それらはすべて成し得なかったことなのである。
◆中宮彰子の女房で『源氏物語』の作者・紫式部
◎道長の愛人?2人の本当の関係は?
【紫式部とは?】
本名不詳(紫式部は女房名)。『源氏物語』『紫式部日記』の作者。漢詩人・藤原為時(演:岸谷五朗)の娘。三十六歌仙の一人である中納言・藤原兼輔は曽祖父。藤原道長の娘で中宮・彰子の家庭教師兼女房として後宮に出仕。
ドラマの中では幼いころに出会い「相思相愛」の道長と紫式部だが、史実においては、街中であのように出会っていた可能性は、残念ながら限りなく低い。
平安時代の貴族女性はほとんど外出する機会がなく、街中で出会うというシチュエーション自体にかなり無理がある。また、彼らの関係はあくまで主従関係であり、ドラマとは異なるものだった。
しかし、紫式部が道長の愛人だった、とする説は昔からある。
『紫式部日記』に紫式部と道長との関係が「思わせぶり」に書かれていることから、南北朝成立の系譜集『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』には紫式部は「御堂関白道長妾」であると記載がある。
『紫式部日記』では道長を「お姿の大変ご立派なこと」「素晴らしい」とかなりべたぼめ。また、権力者で多くの愛人を持つ道長との艶っぽい和歌のやり取りをわざわざ記している当たり「わたしだって捨てたもんじゃないのよ」という式部の本音が見て取れる。
ただ、それだけで2人が愛人関係だったと決めつけるのは難しい。
はっきりしているのは、彼らはお互いに「持ちつ持たれつ」の良好なビジネスパートナーだった、ということ。紫式部は道長のバックアップがあったからこそ、大作『源氏物語』を書き上げることができたのである。
◎平安時代のバリキャリ・高尚侍(こうのないし)と清少納言
では紫式部は、どのように道長の出世に貢献したのか?紫式部が彰子に仕えるようになったのには、以下のような背景があった。
平安時代は、女性は漢詩など読めなくて当たり前だった。当時としてはかなりの変わり者で、今でいう「キャリア志向」だったのが、道隆の妻・高階貴子と清少納言(演:ファーストサマー・ウイカ)である。
貴子の実家・高階家は代々学者を輩出する下流貴族で、境遇としては紫式部とよく似ている。彼女は漢詩の知識を買われて円融天皇に女官として仕え、高尚侍と呼ばれた。
明るく物おじせず賢い貴子の素養は、そのまま娘である皇后・定子に受け継がれた。年下の天皇に臆することなく接する知的な定子はたちまち一条天皇を虜にする。
同様に定子に心酔したのが女房として仕えた清少納言である。ドラマ内で清少納言は、「夫も子どもも捨てて宮仕えを選ぶ」と語っていた。彼女が中心となって、定子の後宮には貴公子たちが足しげく通う魅惑的なサロンが形成されたのだ。
◎スカウトマン・道長のおめがねにかなった才女
一条天皇と定子には漢詩という共通の話題があった。そこで、道長は彰子のもとにも漢詩に通じた女性を集めねば、と次々と有能な女性をスカウトしてくる。その一人が、当時人気急上昇の『源氏物語』の作者である紫式部だったのだ。
「彰子の後宮に来れば、あの『源氏物語』の最新稿が読める」となれば、一条天皇の足も向くかもしれない、と道長は考えたのだろう。そしてその読みは「大当たり」だった。
『紫式部日記』には、式部が書いた原稿を製本するくだりがある。もちろん、「一緒に読みませんか?」と一条天皇を誘うために製本したのだ。
紫式部の『源氏物語』は、彰子の後宮に天皇を呼び寄せる最大の「客寄せパンダ」だったのである。
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
主要参考文献
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)