【戦国時代】“上杉四天王”の中で最強?軍神の右腕として敵勢を震えあがらせた猛将「柿崎景家」の実力とは
ときは1561年、上杉謙信が率いる越後勢の前に、勇猛で名高い武田の大軍が立ちはだかっていました。
敵は総大将の武田信玄みずから率いているほか、配下の武将も猛将や智将が、勢ぞろいしています。いかに歴戦の上杉軍といえど、無事ではすまない相手であることは明白でした。
かつてない強敵を前に、謙信は全軍を鼓舞します。「よいか者ども!死なんと戦えば生き、生きんと戦えば、必ず死するものなり。さあ、我こそは先陣をという者はおるか?」
その言葉が終わるやいなや、居並ぶ家臣の中から、漆黒の甲冑をまとった武者が進み出て言いました。「おそれながら、一番槍の栄誉は、我が軍勢にお命じくださいませ!」
その武将こそ、“越後の二天”や“上杉四天王”に名を連ねる猛将、柿崎景家(かきざき・かげいえ)でした。
彼は上杉謙信をして「越後で彼に勝る者はいないだろう」とまで言わしめたと伝わります。一体、どのような人物だったのでしょうか。
最初は謙信の父と敵同士
景家は最初から謙信の一族に仕えていた武将ではなく、むしろはじめは敵でした。
まだ謙信が幼く、その父親が大名として越後を治めていた時代、内部からその覇権をねらう上条定憲(じょうじょう・さだのり) という武将が挙兵します。
そのとき景家も上条軍に組していたほか、一説によれば後に上杉四天王に数えられる“宇佐美定満(うさみ・さだみつ)”も味方していたという説もあり、その戦力は越後で最大の勢いに、膨れ上がります。
謙信の父は相当なピンチに追い込まれましたが、彼もまた武将として相当なつわものでした。調略を仕掛けたのか・・あるいは景家に「この方にこそ、つき従いたい」と思わせるカリスマ性を見せたのか、土壇場で柿崎勢を味方に引き入れると、形勢は一気に逆転。
上条勢は粉砕され、越後の支配権を獲得した父の遺産は、やがて子の上杉謙信へと引き継がれて行きます。
敵勢を打ち崩す漆黒の猛将
前述の通り、上杉謙信の忠実な家臣となった景家は、主だった合戦の多くに出陣。しばしば上杉勢の先鋒を務め、その勇猛さは「鉄をもつらぬく」と評されました。
彼は部隊の軍装を黒で統一していたとも言われ、合戦の開始とともに猛烈な突撃をしてくる漆黒の軍団には、多くの敵勢が恐怖したと伝わります。
その強さは相手が戦国屈指の武田軍であってもいかんなく発揮され、4回目の川中島の戦いでは、山本勘助や武田信玄の弟が戦死するほどの激戦でしたが、一説によれば景家の部隊が両名を討ち取ったとも伝わり、仮にそうだとすれば、上杉勢の中でも最高レベルの戦果です。
また今でいう石川県で一向一揆の大軍と戦った際には、柿崎勢の武者が左手を弓で射られながらも果敢に戦い、ついに敵将の首を取ったと言います。
その家臣が「いち早く、御大将へ報告すべし」とばかり馳せ参じると、景家は言いました。「まだ合戦中だと言うに、何を引き返しておるか!手柄なら後でいくらでも見定めてやるゆえ、はよう前線に戻り、さらなる敵を討ちに行かぬか!」
これも景家の百戦錬磨ぶりや、ひたすら敵を穿つ信念が伺えるエピソードの1つです。
“上杉四天王”の顔ぶれ
ちなみに上杉四天王に数えられた他の3人は、どのような顔ぶれだったのでしょうか。ここで簡単にご紹介したいと思います。
- 【宇佐美定満(うさみ・さだみつ)】
上杉謙信の軍師にして、自ら書き記した“宇佐美・神徳(みとく)流”と呼ばれる軍学をもとに、数々の勝利に貢献。一説によれば越後の国へ鉄砲を伝えたり、多数の諜報員を組織していたほか、政治工作も行っていたと伝わる智将です。
エピソードとしては、川中島の戦いで武田軍の“キツツキ戦法”を見破り、信玄を窮地に追いやったとされているものがあります。
大河ドラマ“風林火山”においては緒形拳さんが演じ、GACKTさん演じる上杉謙信が熱くなりすぎた時に、たしなめる場面も描かれました。じつは実在しない人物とされている説もあります。
- 【直江景綱(なおえ・かげつな)】
古くから上杉謙信に信頼されていた重臣で、謙信が京都に上洛した際は、足利幕府との折衝を務めたほか、北条家との決戦で関東に出陣した際には、越後の留守を守るなど、派手さはありませんが内政や外交で上杉家を支えたと言われます。
また川中島の合戦などにも出陣し、武田軍と渡り合っていることから、実際の戦闘においても、実力を発揮していたと思われます。
謙信の亡き後は、世に名高い“直江兼続(なおえ・かねつぐ)”を養子に迎え、一族の跡継ぎに据えます。彼の活躍は次世代の上杉家に、大きな力を与えていきました。
- 【甘粕景持(あまかす・かげもち)】
謙信の父が当主の時代から仕え、謙信の亡き後も跡継ぎの上杉景勝を支えるなど、四天王の中では最も長きにわたって、上杉家を支えた武将と言えます。
川中島の戦いで上杉軍は“キツツキ戦法”を見破ったと言いますが、武田軍の別働隊は時間はかかっても、戦場へ急行してきます。
そうすると上杉軍は挟み撃ちにされますが、このとき彼が最後尾で別働隊を迎え撃ったとされ、その奮闘ぶりに敵勢は容易に、上杉勢を挟み撃ち出来なくなりました。
敵勢は「さては、この部隊は謙信みずからが率いているな」と勘違いしたと言い、彼の武将としての強さが伝わります。
以上が上杉四天王の顔ぶれで、いずれも優れた武将であったことは、おそらく間違いありません。ただ記録だけで見ると、どちらかというと裏方であったり、渋い働きで全体を支えていた面が多い武将もいます。
何をもって“強い”とするかは人それぞれですが、戦場の働きやインパクト、また後述の働きなどにより、筆者としてはやはり柿崎景家を“四天王最強”に推したいところです。
柿崎景家は“脳筋”武将?
さて、冒頭に上杉謙信が「越後の国で、景家に勝てるものなし」と評価した話をお伝えしましたが、言い伝えによってはこれに「・・分別さえあれば」という一語が加わっています。
その説に沿って考えれば“強いのは良いが、周りを見ず猪突猛進する”という解釈にも繋がります。さながら三国志でいうところの張飛で、そうした武将は往々にして相手のワナにはめられたり、敵との交渉時に「ごちゃごちゃ言わずに、ぶっ潰した方が早いわ!」などと、血気にはやるイメージもあります。
しかし1569年、上杉謙信が武田家に対抗するため、宿敵の北条家との同盟を模索した際に、景家は重大な役目を果たしています。交渉役の前面に出たことをはじめ、自らの息子を北条家への人質として送り、同盟の話をまとめています。
しかも、その交換条件として“北条氏康の息子を、上杉謙信の養子にする”ことが決まりました。関東の覇者たる北条家が、ただのイノシシ武者を相手に、そのような条件を呑むでしょうか。
このトレードが成立すること自体、かつて戦った大名から見ても柿崎景家の評価が、並ではないことが伺えます。
「分別さえあれば」の真実はわかりませんが、今風の表現で言うところの“脳まで筋肉”な人物では決して無く、文武を兼ねそなえた名将だったのではないかと、筆者の目には映ります。