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近道を選択して地獄を見た ドナー隊の悲劇

華盛頓Webライター
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19世紀、アメリカでは新たなる土地を求めて多くの開拓民が西部へ入植していきました。

しかし中には目的地に辿り着くことができず、命を落とすことになった開拓民も決して少なくなかったのです。

この記事ではカリフォルニアを目指して西部へと進んでいったドナー隊の軌跡について取り上げていきます。

近道の誘惑

1846年夏、カリフォルニアを目指す移民たちは、新たな近道を提案するランスフォード・W・ヘイスティングズからの手紙を受け取りました。

彼は、従来の道よりも優れたルートがあると主張し、移民たちをその道に導くため、ブリッジャー砦で待っていると述べたのです。

ドナー家とリード家もこの手紙を受け取ったものの、後にタムセン・ドナーは彼を「身勝手な冒険屋」と見なしていたと述べています。

7月20日、一行はリトル・サンディ川で分岐点に立たされました。

多くの移民は確立されたホール砦経由の旧道を選んだものの、ドナーとリードを含む一団は、ヘイスティングスの近道を信じてブリッジャー砦を目指すことにしたのです。

ドナーは、穏やかで経験豊富な性格から一行の指導者に選ばれたものの、彼らの多くは開拓者とは名ばかりでした。

おまけに彼らに山地や乾燥地帯を旅する経験のあるものはほぼなく、アメリカ原住民との接し方にも無知だったのです。

ジャーナリストのエドウィン・ブライアントは、ドナー隊よりも1週間早くブラックスフォークに到着し、ヘイスティングスの近道が危険であることを察知しました。

彼はドナー隊に警告を残そうとしたものの、これが一行に届くことはなかったのです。

ブライアントは後に、交易所のジム・ブリッジャーがこの警告を握り潰したと日記に記しています。

ブリッジャーは、ヘイスティングスの近道が成功すれば自分の商売が繁盛すると考えており、ドナー隊に対して道は平坦で安全だと保証していました。

リードはこの保証に大いに感銘を受け、ヘイスティングスの近道を進むべきだと主張したのです。

7月31日、一行は4日間の休息を終え、ブラックスフォークを出発しました。

ハーラン=ヤング隊から11日遅れでの出発となったものの、新たにマクカッチェン家や少年ジャン・バチスト・トルドーが加わり、彼らは困難な旅に再び立ち向かうこととなったのです。

しかし、ヘイスティングスの近道は、これから待ち受ける試練の始まりに過ぎませんでした。

危険な山脈越え

credit:pixabay
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ドナー隊は、ヘイスティングズの「近道」を信じ、ワサッチ山脈を越える挑戦的な旅に挑みました。

しかし、地形は予想以上に厳しく、道がほとんど存在しない状態で、幌馬車を進めるのに多大な労力が必要だったのです

道中で見つけたヘイスティングズの手紙には、彼がハーラン=ヤング隊が通った別ルートを案内すると書かれていました。

しかしリード、スタントン、パイクが先行して確認したところ、進路は極めて困難であり、ヘイスティングズの助言は不完全だったのです。

リードは一行に戻り、3つの選択肢を提示しました。旧道に戻るか、ウィーバー峡谷を抜けるか、ヘイスティングズの新たな進路を探るかというものです。

リードの提案が通り、一行は新たな進路を選んだものの、これがさらなる困難を招くこととなりました

進行速度は1日あたりわずか1.5マイル(約2.4キロ)にまで低下し、男たちは道を切り開くために藪を払い、木を倒し、岩を動かすという過酷な作業に追われたのです。

ワサッチ山脈を進む途中、ドナー隊はグレイブス家と合流し、総勢87名の大規模な移民団となりました。

しかし、この合流により、彼らがその年の西部移民団の最後尾にいることが確定し、状況はさらに厳しくなったのです。

8月20日、一行はグレートソルト湖を見下ろす地点に到達するも、山脈を抜けるまでにはさらに2週間を要しました。

さらに食料や物資が尽きかけ、内部での口論も激化したのです。

地獄の砂漠横断

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ドナー隊は、1846年8月25日にルーク・ハロランが結核で亡くなった後、さらに過酷な試練に直面しました。

彼らが見つけたヘイスティングズの手紙には、この先には草も水もない道が続くと警告されており、一行は前進するしか選択肢がない状況に追い込まれまれたのです。

8月30日に砂漠を進み始めた彼らは、猛暑と寒さに苦しみながらも進むことを余儀なくされました。

幌馬車は地面に沈み込み、家畜も次々と失われていったのです。リードの家畜もほとんどが失われ、一行は大きな損失を被ったのです。

砂漠を越えた頃には、ドナー隊はヘイスティングズの「近道」に対する信頼を完全に失い、疲弊した家畜を休ませ、砂漠に遺した物資を回収するために数日を費やしました。

リードは強情に物資の目録を求め、スタントンとマクカッチェンをサッター砦に派遣して食料を調達しようとしたのです。

彼らは次の砂漠区間を無事に通過したものの、9月中旬には旅の進行が遅れ、さらに40マイルに及ぶ砂漠が待ち受けていることが判明しました。

ドナー隊は、疲弊した家畜とともに進み続け、9月26日に旧来の街道に合流したのです。

しかし、この「近道」を取ったことで、時間を節約するどころか、逆に1か月以上も遅れてしまいました。

ヘイスティングズへの不信感と憎悪が一行を支配しながらも、彼らは前に進むしかなかったのです。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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