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テレビニュースや情報番組に「コメンテーター」は もう要らないのではないか。

鎮目博道テレビプロデューサー・演出・ライター。
(写真:ペイレスイメージズ/アフロイメージマート)

なぜ日本のテレビは「ニュースばかり」になってしまったのか

かつてテレビのニュースや情報番組は、今ほど長時間放送されていたわけではなかった。私がテレビ局に入って、報道・情報番組の制作に携わるようになった90年代初頭には、早朝の情報番組があって、そのあと朝のワイドショーが2時間。昼頃にいくつか1時間くらいのワイドショーがあって、夕方のニュースはせいぜい1時間。夜のニュースは30分くらい、という局が多かった。それが現在では、ゴールデンタイムを除けばほぼ朝から晩までニュースと情報番組ばかりになっている。

しかもその当時、朝や昼のワイドショーは今ほど「ニュースっぽい話題」を取り上げていたわけではなかった。芸能ネタや生活情報ネタも多かったし、日本の社長が紹介されたり、隣の晩ごはんに突撃していたりした。一体いつからこんなに日本のテレビは、ニュースや「ニュースっぽい」内容ばかりになってしまったのだろうか。実は生番組の方が制作費は安く済む。視聴者の高齢化に伴ってニュース的な内容の番組が受け入れられやすくなってきたのもあると思う。しかし、とりあえずそのことは置いておく。

ニュース・情報番組の制作に長年携わってきた私が今回指摘したいのは、新型コロナの問題がきっかけとなり、「コメンテーターというテレビニュースの演出」が、視聴者から受け入れられなくなってきているのではないかということだ。誤解を恐れずに言えば、「コメンテーター」が多すぎて、視聴者が食傷気味になっているのではないか、とつくづく感じてしまうのだ。

かつてニュースに「コメンテーター」は必要なかった

ニュースに一番求められるのは、いうまでもなく「新しい事実」を伝えることだ。乱暴に言えば、かつてニュースに「コメンテーター」は必要なかった。キャスターやアナウンサーという「ニュースを正確に読んで伝える」そして「番組を進行する」役割の人がいれば、最小限ニュース番組は成立する。

一つ一つのニュースをさらに深めるために、場合によってスタジオに呼ばれたのは、一つ一つのニュースについて知見を持っている専門家。そして、そのニュースを実際に現場で取材した記者やディレクターだ。あとは、「社会」「経済」「政治」「外信」というそれぞれの専門分野に詳しいデスクや解説委員などが出演することもあった。つまり原則的に、ニュース番組のスタジオで解説をしたり意見を述べるのは、それぞれのニュースの専門家か、そのニュースについて実際に取材をして、背景を詳しく知っている人かに限られていたのだ。

「コメンテーター」はワイドショー的演出だ

コメンテーターやゲストを多用して、様々な意見をぶつけ合い、その議論を楽しむというのはワイドショー的な演出手法だ。様々なジャーナリストや新聞・雑誌などのベテランを呼んで「有識者」としての意見を聞くだけではなく、タレントやお笑い芸人なども呼んで「いわば一般人代表として」の意見も聞き、その「トーク」を楽しむ。ニュース番組とは違うアプローチで、いろいろな社会事象を見ていくのがワイドショー番組の真骨頂だ。

しかし、いつしかワイドショーは「ニュース化」していき、ニュース番組は放送時間が長くなり「ワイドショー化」していった。今やあまりワイドショーとニュースの差は無くなり、一般の視聴者の方にはほぼ同じように捉えられているのではないだろうか。そして、当たり前のようにニュース番組にも、「コメンテーター」が登場するようになった。

「事実」を「意見」で水増ししてはいけない

ニュース番組のコメンテーターは、ジャーナリストだったり、新聞・雑誌・webニュースなどの記者・編集者だったりで、みなさんそれぞれ専門分野を持つ「ニュースのプロ」である場合が多い。様々な取材経験に裏打ちされたコメントには、素晴らしい内容のものも多く、ニュース番組にとっても、大切な存在であることには間違いない。

しかし、残念ながら、どんなに優秀で経験豊富なジャーナリストにも、「専門分野」はあるのだ。逆に言えば「専門以外」の事については、それほど詳しいわけではないのが実態だ。「政治にも経済にも社会にも国際情勢にも詳しくて、化学も医学も文化もわかる」みたいなスーパーマンは、いないと言っていいいだろう。誰しも、「コメントできる話題と、コメントできない話題」は必ずある。

それを、「レギュラーコメンテーター」として、毎日あるいは毎週1回とかスタジオに出演してもらい、専門外のニュースにも「もっともらしい意見」をもらっても、それはあくまで「取材者の解説」ではなく「意見」にすぎない。しかし、見ている視聴者は、それを話す人の経歴や肩書を見て、それを「あたかも事実であるかのように」捉えてしまいがちだ。しかも、新型コロナを機に、多くの人がその「もっともらしい意見」に嫌悪感を覚えるようになったと思う。ある意味タレントやお笑い芸人などに「明らかにニュースの素人である」前提でコメントをもらう方が、「一個人の意見」であることがハッキリするだけいいのかもしれない。

コロナ危機の今、テレビのニュースや情報番組により求められているのは、「正確な事実や、専門家の知見や科学に基づく意見や予測」を正しく、早く、わかりやすく伝える事だ。様々な意見をいろいろな人がワイワイ論争して楽しむことは、あまり求められていないのではないか。ましてや「もっともらしいが、本当かどうか分からない」言説は、むしろ嫌がられていると思う。

大切なのは、事実を伝えることだ。番組の尺を埋めるために、事実を意見で水増ししてはいけないのだ。

コメンテーターを呼ぶなら、事実を深めるために呼ぶべきだし、きちんとその人の能力を生かしていただける形でご出演いただかなければならない。我々テレビ人は今こそ「テレビのコメンテーター」という演出はどうあるべきか?を真剣に考えなければならないと思う。

テレビプロデューサー・演出・ライター。

92年テレビ朝日入社。社会部記者として阪神大震災やオウム真理教を取材した後、スーパーJチャンネル、スーパーモーニング、報道ステーションなどのディレクターを経てプロデューサーに。中国・朝鮮半島やアメリカ同時多発テロなどを取材。またABEMAのサービス立ち上げに参画。「AbemaPrime」「Wの悲喜劇」などの番組を企画・プロデュース。2019年8月に独立し、テレビ・動画制作のみならず、多メディアで活動。公共コミュニケーション学会会員として地域メディアについて学び、顔ハメパネルをライフワークとして研究。近著に『腐ったテレビに誰がした? 「中の人」による検証と考察』(光文社)

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