「1人でいたくないのに、1人でいたい」壮絶な家庭環境だった大東駿介を救った意外な芸人
6月4日発売の『女性セブン』(2020年6月18日号)で「別居婚」が報じられた大東駿介。現在は家族5人で同居しているというが、当初、別居していた理由を彼は以下のように語っている。
大東駿介は、「家族」という言葉に拒否反応を示すほどの、壮絶な家庭環境で育った。それは具体的にどのようなものだったのか、過去のテレビ番組での発言から探ってみたい。
大東が「複雑な家庭環境で育った」ということをテレビで発言したのは、2019年7月9日に放送された『チマタの噺』(テレビ東京)がおそらく初めてだろう。
「早い段階で家族と離れて生活していた」「中学の頃から一人暮らしをしていました」とサラッと話しが、司会の笑福亭鶴瓶も「すごいやん」と驚きつつも、そのことについて深く聞くことはしなかった。
それを受けてなのか、映画『37セカンズ』のプロモーションの一貫で出演した、同じく鶴瓶司会のTBS『A-Studio』(2019年11月29日放送)や関西テレビ『おかべろ』(フジテレビでは2020年3月3日放送)では、彼の過酷だった過去が詳しく語られた。
両親が蒸発
まず、小学3年生の頃、父親がいなくなる。
タクシー運転手だった父とは、生活のサイクルが合わなかったため、もともとあまり会うことがなかった。
そうして大東は、自分の父親がいなくなったのを知る。
さらに、中学の頃、母親も蒸発する。
母は自営業でクリーニング店を営んでいた。1人で切り盛りしていたため、シャッターを半分閉めるのが「ちょっと出かけています」という合図だったが、中学1年の頃から、そうした状態が段々多くなっていった。夜になってようやく帰ってくる日ができ、翌日まで帰って来ないこともあった。さらに階段にお金だけ置いて、2日帰ってこない、3日帰らない、1週間……と段々と家を空けるスパンが長くなり、遂には、いなくなってしまった。中学2年生の頃だった。
そこから極貧の一人暮らしが始まった。
クリーニング屋のレジにある金でしのいでいたが、やがてそれもなくなっていく。かき集めた1円玉で10円の駄菓子を買って食べていた。
主食は駄菓子の「どんどん焼き」。サラダ味の「じゃがりこ」にお湯をかけてサラダ代わりにした。
それを買う際も、1円玉をたくさん出して買うのが恥ずかしいため、1個1個、別々のお店に行った。
だから誰にも相談できなかった。
やがて、学校にも行かなくなり、引きこもり状態になった。
小5の時に拾ってきたウサギだけが話し相手だった。
夜になると、「自分は社会に出てはいけないんじゃないかっていう気持ちになって」怖くなった。
ライフラインも止まり、ウサギのフンまみれのベッドで横になりながら、漠然と俳優になりたいと思っていた。俳優なら「自分じゃなく生きれるから」だ。そうやって「別の人間」になることでしか、自分の生きる道はないと思ったのだ。
大東を救ったもの
そんな日々を救ってくれたのが友人たちだった。中学の頃、いつも5人組でつるんでいた。5人とも人に馴染めなくて口グセのように「俺たちダメやな」と言っていたため、いつの間にか「ダメ」というグループ名になった。
それ以降、大東の家は、5人組のたまり場のようになった。
その5人のうちの1人が、小学校の頃から親友だったお笑いコンビ「金属バット」の小林圭輔だったのだ。
やがて、近所に住んでいた「厄介事引受人」のような親戚に引き取られ、実の子供のように育てられた。
18歳で上京し、俳優になるという夢を叶えた大東に父親が見つかったという連絡があったのは27~28歳の頃だ。けれど、「捨てられた」という感覚に近い感情があったため「会うもんか」と意地を張ってしまった。
だが、「会う」と決心した直前、父親は亡くなっていた。
そうした経験を経て大東駿介は「自己肯定」ができるようになった。