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イスラエルの暗殺作戦が明らかにした紛争の広さと深さ

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 2024年7月30日~31日にかけて、過去10カ月余り続いてきた中東の紛争の転機となりうる事件が相次いで発生した。30日には、イスラエル軍がレバノンの首都ベイルート南郊のダーヒヤ地区の住宅街を攻撃した。イスラエル軍は、攻撃は、ヒズブッラー(ヒズボラ)の幹部のフアード・シュクルを暗殺するためのもので、暗殺に成功したと発表した。住宅地への攻撃ということで、巻き込まれて死傷した民間人も多数に上った。これだけでも、過去1~2カ月の間に相次いだイスラエルからの脅迫の結果懸念されていたレバノン方面での戦闘激化につながる重大事件だ。レバノンの住宅地への攻撃と多数の民間人殺傷は、これまでのイスラエルとヒズブッラーとの対立の中で形成されてきた「ルール」から逸脱する行為だ。「ルール」を維持するためには、どんなに彼我の実力に差があることを分かっていようとも違反を看過することはできない。ヒズブッラーがイスラエルとの戦闘の強度を上げたり、範囲を拡大したりせざるを得ない局面に達したともいえる。ここで予想される選択肢としては、これまで繰り返してきたような戦闘に使用する兵器の量・質の増強、イスラエル北部の入植地(注:イスラエルの入植地とは、一般にそれと信じられているヨルダン川西岸地区やゴラン高原の入植地だけではない!)の居住区画への攻撃、テルアビブやハイファのような重要都市の住宅地や社会資本への攻撃、イスラエル側に戦闘員を潜入させる作戦の実施などがありそうだ。現状に鑑みると、ヒズブッラーは極端に紛争の強度を上げる選択肢は取らないだろう。

 ここまででも大事件なのだが、それを吹っ飛ばす事件が発生した。31日にハマース(ハマス)が、イスマーイール・ハニーヤ政治局長がテヘランで暗殺されたと発表したのだ。ハマースの当初発表を斜め読みすると、暗殺には「空から飛んでくる何か」が使用されたようで、工作員が襲撃したとか狙撃したとかの類ではなさそうだ。イスラエルは、長年にわたりいつでも、どこでも敵方の要人を暗殺し続けており、ハマースの幹部の暗殺はイスラエルにとって「造作もないこと」であろう。これに対し、「抵抗の枢軸」の側は、ハマースを含むパレスチナ諸派はもちろん、シリアやイランのような国家でもイスラエルを抑止したり、暗殺に反撃したりする有効な手段を持っていない。しかし、ここでも暗殺の場がイランだったことに鑑みれば、客観的な実力の判断をこえて、イランが「何もしない」というのはなんとも格好が悪い。こちらも、イスラエルが紛争の敵方を紛争の拡大・激化の方へと押しやる重大な挑発をしたと思えばよい。

 要するに、これまで筆者が指摘し続けてきたとおり、現在の紛争はガザ地区という寸土でハマースとイスラエルが争う矮小なものではなく、中東の広範囲でイスラエル(および同国を支援するアメリカ)と「抵抗の枢軸」の諸当事者とが争っているものなのだ。そう考えれば、アメリカがガザ地区のパレスチナ人民の窮状を打開するための実効的措置を全く取らないのは、ある意味当然のことだ。ガザ地区のパレスチナ人民も、ゴラン高原に住む非ユダヤ人も、その生命や財産はニュースのネタや紛争激化の口実でこそあれ、彼らには尊重すべき権利はないということだ。地域全体に視野を広げると、7月19日にはイエメンのアンサール・アッラー(蔑称:フーシー派など)がテルアビブを無人機で攻撃し死者が出た。翌20日にはイスラエルがイエメンを攻撃し、同国のフダイダ市の港湾周辺の施設に甚大な被害が出た。アンサール・アッラーが2023年10月以来、パレスチナ人民への支援を理由にイスラエルへの攻撃や紅海などでイスラエル関連の船舶への攻撃を繰り返し、それがアメリカ、イギリスなどからなる連合軍によるイエメン攻撃にまで至っているのは周知のことだ。また、30日のイスラエルによるレバノンへの攻撃とほぼ同時に、イラクではアメリカ軍がバグダード南方にある人民動員隊の施設を攻撃し、人民動員隊の要員を殺傷した。人民動員隊の少なくとも一部は、「イランの民兵」として知られ今般の紛争で「イラクのイスラーム抵抗運動」を名乗ってイラクやシリアのアメリカ軍基地や、イスラエルの諸拠点を無人機や巡航ミサイルで攻撃してきた

 ここまでの動きを見れば、イエメンやイラクでの戦闘・攻撃も、現下の紛争を拡大・激化させるための挑発であったり、敵方の反撃能力を殺ぐための先制攻撃であったりすると解釈するのが可能だ。実際、イラクの人民動員隊諸派は、レバノンとイラクでの攻撃とハニーヤ政治局長の暗殺を一体のものとみなす趣旨の声明を発表している。となると、ここまでの事態の展開で何かしないわけにはいかなくなった「抵抗の枢軸」陣営の反応は、事態を「レバノンの事件」とか「パレスチナのできごと」と矮小化して観察していては分析も予想もできないということになる。「抵抗の枢軸」陣営の結束や指揮系統がそれほど強固で集権的でなかったとしても、ベイルートへの攻撃やハニーヤ政治局長の暗殺の意趣返しがイラクやイエメンや別の場所で起きることは十分ありうる。もちろん、今般の事件でヒズブッラーが「紛争の強度や範囲の拡大幅をなるべく抑える」反撃を選択しそうだと予想できるのと同様、イラクでもイエメンでもシリアでも「抵抗の枢軸」陣営が要人暗殺やイスラエル・アメリカ権益への強力な攻撃で応じる可能性は低い。例えば、人民動員隊はイラクの正規の治安部隊であり、人民動員隊諸派の一部は国会議員や閣僚を輩出する立派な与党だ。こうした立場を使って、イラクとアメリカの両政府が協議しているイラクに駐留するアメリカ軍などの退去問題を盛り上げるという政治的嫌がらせをすることはほぼ確実である。よく考えながら観察しないと理解できない程度の規模や強度になるのかもしれないが、ベイルートへの攻撃やハニーヤ政治局長暗殺の「影響」はレバノン方面やガザ地区での戦闘や停戦交渉「だけ」で出るのではない。2023年10月7日の「アクサーの大洪水」攻勢以来の政治・軍事情勢は、ガザ地区という狭い場所でのできごとではなく国際紛争であると再認識することで、今後の展開の分析や予想の精度も上がることだろう。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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