『鎌倉殿の13人』の「13人」が消されていく順番 最後に残る黒幕の「2人」とは
これからどんどん減っていく「13人」
『鎌倉殿の13人』では第27話で「13人」が揃った。
放送日で言えば、令和4年の7月17日のことになる。
歴史書「吾妻鏡」に沿った時間軸でいえば「建久10年4月12日」。
癸酉(みずのととり)の日のこと、と書かれている。
まあドラマのように、陪審員のごとく、13人が勢揃いして話し合いをしたのかは、かなり疑問ではあるのだが、でも13人揃った。
そしてそこから、どんどん減っていく。
陪審員のドラマと同じだ。
「被疑者は有罪でいいだろう」とみんなが信じている雰囲気のなか、無罪を主張して陪審員一人ずつを落としていくことによって、形勢を逆転させる。
それが陪審員ドラマである。
陪審員ドラマふうの『鎌倉殿の13人』
『鎌倉殿の13人』というタイトルから想像するかぎり、これからの展開はその「陪審員もの」に準ずるように見せるのだろう。個人的にはそうおもっている。
ただ、陪審員とは違って、「鎌倉殿を操ろうとした13人」は、それぞれリアルに地上から消されていくことになる。
『鎌倉殿の13人』の後半は、それを見せるドラマだ。
13人だけではない。源頼朝の縁者をふくめ、多くの人が消される。
ごく一部の人間だけが地上に残る。
リアルに描けば陰惨で凄惨な粛清(人殺し)の繰り返しとなるのだが、そこはそれ、ドラマでもあるし、三谷幸喜が脚本でもあるので、娯楽性に富んだ、コミカルさを含んだ展開になるのだろうと、そのあたりは信じている。
13人は次々と消される。
最後の最後、承久年間に鎌倉政権が京都を圧倒するとき、そこに残っているのは2人だけとなる。
以下、本稿は、歴史事実をドラマに沿って紹介していくばかりであるが、大河ドラマの今後のネタバレにもなっているのでご留意いただきたい。
「武官」は人を殺すのも仕事
頼家を囲んだ13人のうち、文官が4人、武官が9人であった。
この区別は大事である。
文官は御所にあって政務にあたり、いわば事務処理に専念する人たちである。
彼らは命令によって人を殺しに行かない。それがふつうだ。
武官は武人である。
命令によっては人を殺しにいく人たちである。
それも仕事だ。
まあ武士と呼ばれる人たちだけど、よく言って野蛮、実際のところはかなり血腥い職能集団である。
だから政府トップにいようとも、武官たちはあっさり殺されていく。
建久10年の「13人」の名前
いちおう、1199建久10年(改元あって正治元年)の13人の名前を並べておく。
武官9:梶原景時。三浦義澄。安達盛長。比企能員。北条時政。足立遠元。和田義盛。八田知家。北条義時。
文官4:中原親能。二階堂行政。三善康信。大江広元。
まず中原親能が抜けて12人
28話で、中原親能(川島潤哉)が13人衆からまず抜けた。
ドラマ『鎌倉殿の13人』ではそうなっている。
もともと京都政権との折衝のために京都にいたことも多かった人である。京都に移り住んだということで抜けた、ことになった。
中原親能抜けて残り12人。
頼朝の娘・三幡の死去に伴うものとすれば、1199正治元年6月のことになる。
梶原景時が消されて残り11人
つづいて、梶原景時(中村獅童)が消される。
結城朝光(高橋侃)の断罪からの「梶原景時糾弾訴状」御家人連名によって、除外される。
梶原景時ぬけて残り11人。
景時は、一族とともに京都へ向かう途中、駿河国で討たれる。
「正月廿日、晴れ」と吾妻鏡に書かれている。「伴族三十三人、頸を路頭に懸く」ともあるので、梶原家一族33人の首が晒されたらしい。
有力御家人梶原一族は全滅した。1200正治2年1月。
じいさん2人が消えて残り9人
この景時の乱のすぐあと、三浦のじいさん、つまり三浦義澄(佐藤B作)が病没。
1200正治2年1月。
三浦義澄ぬけて残り10人。
また、頼朝の側近だった安達のじいさん、安達盛長(野添義弘)も病没。
1200正治2年4月。これで残り9人。
阿野全成殺され、比企能員殺され、残り8人
三年経って1203建仁3年、6月に阿野全成(新納慎也)が殺され、その流れで9月に比企能員(佐藤二朗)が殺される。
比企能員消されて、これで残り8人。
同日、比企一族は殲滅され、頼家の子の一幡も殺される。
その関わりで仁田忠常(ティモンディの高岸)も殺されてしまう。
彼が消えるのはかなり残念である。まあ「下野国の職能野球軍団(栃木ゴールデンブレーブス)」に参加するからには日程的にそのへんがよかったのかもしれない。
源頼家殺され、畠山重忠殺され、北条時政追放され、残り7人
翌1204元久元年7月、源頼家(金子大地)が北条家の手によって修善寺で殺される。
さらに1205元久2年畠山重忠(中川大志)も殺される。
このへんの粛清はすさまじい。基本、すべての動向に義時は関連しているはずである。
重忠殺しの波紋で、北条時政(坂東彌十郎)までもが追放される。
まあ、殺されないだけましだといえる。
北条時政の追放で残り7人。1205元久2年。
足立遠元と二階堂行政の名前が消える 残り5人
実朝将軍の時代が進むと、足立遠元(大野泰広)と二階堂行政(野仲イサオ)の名前が公文書に出てこなくなる。
どうやらこのころ引退ないしは、病没したらしい。
00年代のことになる(13世紀の)。
この2人がいなくなって残り5人。
(足立遠元はドラマでは若く設定されているので、ドラマでこの時期にいなくなるかどうかはわからない)
ちなみにドラマで最初に抜けたとされている中原親能は、1208承元2年に病没した。
大掛かりな戦闘で和田義盛が消され残り4人
時政追放から、しばらく平穏な時期が続く。
この時点で「まだ残っていた5人」は、武官が北条義時、八田知家、和田義盛、文官が大江広元と三善康信である。
そして1213建暦3年、北条方の挑発にのせられ和田義盛(横田栄司)が挙兵し、殺される。
「和田合戦」と呼ばれる大掛かりな戦闘があった。
一族も殺される。晒された首は200を超えたらしい。
和田義盛が消され、これで残り4人。1213建暦3年5月。
八田知家は病没。残り3人となり源実朝暗殺される
八田知家(市原隼人)は1218建保5年に病没。
(ドラマでの八田知家の扱いは、少し違ってくる可能性がある)
武官は義時だけになった。
「鎌倉殿の13人」のうち、残り3人。
北条義時と大江広元と三善康信。
1219建保6年には三代将軍実朝が、二代頼家の遺子の公暁に暗殺される。
公暁は義時も殺そうとしていたのだが、実朝に近侍しているはずの彼は、不思議なことに襲撃直前になってその場を離脱している。
承久の乱が起こり、そして「13人」は「2人」となる
1221承久3年、後鳥羽上皇の「京都政権軍」と、北条義時の「鎌倉政権軍」が衝突する承久の乱が起こる。
三善康信と大江広元は、京都の文官であったが、朝廷軍と戦うことを強く進言する。
開戦時にすでに病床にあった三善康信(小林隆)は、それでも乱平定まで生き延び、同年8月に歿す。
これで残り2名。
つまり、鎌倉政権が実質日本全体を掌握したとき、政権中枢にいたのは北条義時(小栗旬)と大江広元(栗原英雄)の二人である。
(あとは大きな存在としては政子姉さん(小池栄子)がいて、また三浦義村(山本耕史)も存命である。義村はもっとも永らえるトリッキーな人物である)
最後に残った2人とは「北条義時と大江広元」
日本史を深く読み直すのなら、この「最後まで残った2人北条義時・大江広元」の存在は想像以上に大きい。
「日本」開闢以来君臨した「天皇家」のトップを(治天の君を)初めて「賊軍」として処理したのだ。
それをやったのは日本史上、この義時&広元と、マッカーサー元帥だけである。
『鎌倉殿の13人』の「13人」にはさほど意味はないのだが、ただ、そこから最後まで残った2人が「北条義時と大江広元」だったことは大きなことである。
この2人は「源家の将軍縁者および鎌倉御家人の血の粛清」のほぼすべてに関わった黒幕だったはず。
そして、いまに続く日本国の礎を作った2人だともいえるのだ。
13人が「消えていく」順番まとめ
1199年に13人集結。
1 梶原景時 1200年一族ごと殲滅
2 三浦義澄 1200年病没(ただ一族は宝治年間に殲滅さる)
3 安達盛長 1200年病没(のち子孫が霜月騒動を起こす)
4 比企能員 1203年一族ごと殲滅
5 北条時政 1205年追放(1215年没)
6 中原親能 1208年病没
7 二階堂行政 没年不詳
8 足立遠元 没年不詳
9 和田義盛 1213年和田合戦で一族ごと殲滅
10 八田知家 1218年病没
11 三善康信 1221年病没
鎌倉政権の日本支配が確立したのち
12 北条義時 1224年病没
13 大江広元 1225年6月病没
同1225年7月 北条政子病没