爆笑問題コンビ結成35年 太田光の発言から振り返る唯一無二の芸風が生まれた理由
今年でコンビ結成35周年を迎える爆笑問題。その一人、太田光は若手時代から現在に至るまで茨の道を歩んできた。相方・田中裕二と出会う前から、その性格は変わっていない。
1984年、日本大学芸術学部の演劇学科に合格すると、最初に声を掛けてきたのが田中だった。入学前、試験会場の担当者にヤジを飛ばし、悪目立ちしていた太田がキャンパスを歩いていたことに驚いたのだ。田中は「受かるわけがない」と思っていた。
太田にすれば、一人も友人ができなかった高校時代から脱して社交的になろう、そんな気持ちから出た行動だ。「小さくて、気さくで、ずいぶん親しみやすい人だな」というのが、田中に対する第一印象だった。(太田光著『三三七拍子』(幻冬舎文庫)より)
2人は急速に仲良くなる。太田が教授や先輩と揉めたり、クラス全員の芝居のまとめ役を務めて悩んでいたりした時、田中に「バックレちゃおうぜ」と誘われ、いろんなことから逃げ出した。高校時代、授業中だけが孤独でなかった太田にとって、田中は実に魅力的な人物だった。
田中は2年、太田は3年で大学を中退。田中は先輩とお笑いコンビを組んだが、程なく解散。太田はほとんど授業に出席せず2単位しか取得していなかった。
テレビで「ラ・ママ新人コント大会」の存在を知り、“素人でも参加できる”とあったのを見て、今度は太田が田中に声を掛けた。応募にあたってコンビ名を聞かれ、急いで決めたのが「爆笑問題」だ。2人は1988年にお笑いの道へと駆け込んだ。
期待の新人から仕事ゼロへ
「ラ・ママ」で初めて披露したネタは、進路指導の先生(太田)が生徒(田中)を追い詰めていく毒気のあるコントだった。
すぐに芸能事務所・太田プロダクションから声が掛かり、ビートたけし退所後の期待の新人として大いにプッシュされる。単独ライブを打てばチケットは即完売、事務所ライブの人気投票ではトップの常連。フジテレビの深夜番組『笑いの殿堂』でテレビデビューも果たした。
やがて作り込んだコントから漫才へとシフトし、さらにスピーディーでフレッシュな笑いを生み出していく。順風満帆だった爆笑問題だが、1990年に突如太田プロを退所。当時の担当マネージャーから誘いを受けたこと、ライブに演出がついて自分たちのやりたいネタができなかったことが主な理由であり、とくに深く考えた行動ではなかったという。
しかしこの独立劇は、太田プロの反感を買ってしまう。テレビ業界側が忖度したこともあり、以降3年ほど仕事はほぼゼロに。田中はコンビニのアルバイト、太田はテレビゲームに没頭する日々が続く。
再現VTRなどのシナリオを書く仕事が太田に舞い込んだものの、書き手の存在が知れると途端に採用されなくなった。
“奇天烈なボケ”で返り咲き
どん底の中、太田はコンテストからやり直す道を選択する。再び業界や視聴者に爆笑問題というコンビを知らしめるには、自分たちより若手が参加する大会でもう一度存在感を示すより道がないと考えたのだ。
一念発起した爆笑問題は、1993年の『NHK新人演芸大賞』で漫才師として初の大賞を受賞。続いて、同年からスタートした10週勝ち抜きのネタバトル『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』(テレビ朝日系)で初代王者の座を射止めた。
筆者がよく覚えているのは、当時話題になっていたクローン人間や皮膚移植などをモチーフとしたネタだ。
父親のクローンを作り宴会で組体操を披露する、お笑いトリオ「レツゴー三匹」が「レツゴー三百匹」となってボケ、ツッコミが入り乱れる、人の顔にインダス川を移植して文明を栄えさせるなど、徐々に飛躍していく奇天烈なボケに腹を抱えて笑った。
また、ネタで散々観客を爆笑させ、その後鬼気迫る表情で審査員コメントを聞く太田も印象的だった。『FRIDAY 2023年 3/3・10合併号』(講談社)のインタビューの中で直接当時の心境を尋ねたところ、「(ほかの若手に)負けるわけにはいかないってとにかく必死でしたね」と笑って答えてくれた。
こうした復活劇のさなかで、太田の妻・光代が太田プロに戻るよう提案。しかし、太田は“信用を取り戻せないかもしれない”と難色を示した。1993年11月、やむなく光代が社長となって現在の事務所「タイタン」を設立。爆笑問題は、光代と3人で新たな道を歩み始めた。
不格好なスタイルこそ魅力
1990年代中盤、『ボキャブラ天国』シリーズ(フジテレビ系)の中で若手芸人を中心とするコーナー「ヒットパレード」が人気を博し、空前の“ボキャブラブーム”が巻き起こる。
その真っ只中にいたのが爆笑問題だ。しかし、太田が有頂天になることはなかった。ましてや「流行を作りたい」と願ったこともない。著書『違和感』(扶桑社)の中で、太田はこう書いている。
「たぶん、漫才ブーム(B&B、ツービート、島田紳助・松本竜介らが活躍した1980年代初頭のお笑いブーム)の世間の熱狂っぷりがとてつもなく大きかったからだと思う。あれには勝てないという感覚がどこかにあるというか、ボキャブラブームの時でも、『漫才ブームに比べればたいしたことないな』という、ちょっと冷めた感覚がたしかにあった」
同番組では、海砂利水魚(現・くりぃむしちゅー)やネプチューンら気鋭の後輩たちと共演。今思えば、このスタンスがバラエティーにおける爆笑問題の一つの特色となったと見ることもできる。
2003年に放送が開始した『爆笑問題のバク天!』では、友近やアンガールズ、レイザーラモンHGがブレーク。また、2011年からの『爆問パワフルフェイス!』や『爆報! THE フライデー』(いずれもTBS系)では、有吉弘行、NON STYLE、“チャラ男”で再ブレークを果たしたオリエンタルラジオ・藤森慎吾らと共演している。
また、ここ最近では『爆笑問題のシンパイ賞!!』で“お笑い第七世代”ブームの中心にいた霜降り明星や宮下草薙といったコンビ、『爆問×伯山の刺さルール!』(ともにテレビ朝日系)でヒコロヒーやニューヨーク・嶋佐和也らと番組をともにしている。
常に勢いのある芸人と共演し、時に下の世代を茶化しつつ、時に若手に痛いところをつかれ苦笑する太田。その不格好なスタイルこそ、どのタレントとも被らない稀有な魅力ではないだろうか。
暴走は人とつながるための表現
デビュー間もなくは、あまりに芸風と違う番組に出れば爆笑問題のイメージが変わってしまうと考えていた。それが事務所独立をきっかけに仕事がなくなり、「なんでもやりたい」と思うようになった。余計なこだわりを捨てたのだ。
以降、情報・教養・クイズ・音楽・政治など幅広いジャンルの番組に露出し、個性を発揮し始める。ただ制作陣に身をゆだねたわけでは、もちろんない。物の見方が変わったのだ。
2000年12月29日にBSフジで放送された番組をもとに、加筆・修正して再構成された本『ザ・ロングインタビュー〈4〉人は、なぜ笑うのか?―太田光』(扶桑社)の中で、太田はこう語っている。
「何をやっても結局は俺っぽくなっちゃうんです。何をやってもね。変わる方がむしろ難しいって思ったんです。そうすると、逆に変えてもらった方が楽しい。あとはやっぱり、それほど自分を改革するってあまりできないもんですよね。人間って。よくよく考えてみたら子どもの頃から変わってないですもん、自分の中身なんて」
太田と言えば、番組での暴走や暴言がたびたび話題になる。2019年11月に放送された『FNS27時間テレビ』(フジテレビ系)では、フジテレビ社長にタックルするなど大暴れし、共演者の関根勤から「全部間違ってる」とダメ出しされた。
また2021年10月末に放送された選挙特番『選挙の日2021 太田光と問う!私たちのミライ』(TBS系)で司会を務め、候補者を相手に「人相が悪い」「ご愁傷様」といった言葉を発したことからネット上で炎上した。
毎度本人はひどく落ち込むようだが、こうした言動も日芸の試験会場でヤジを入れていた頃と何ら変わっていないように思える。太田にとっては視聴者を喜ばせたい一心であり、人とつながるための一つの表現なのだろう。
大衆がどう考えるかがすべて
なぜ太田の笑いは、賛否が分かれるのか。それは、幼少期の体験によるところも大きいのかもしれない。前述の著書『三三七拍子』の中で、子どもの頃、弟のようにかわいがっていた愛犬・ポコが瀕死となった時のことをこう述懐している。
「痙攣が段々弱々しくなり、やがて殆ど動かなくなって、ポコの心臓に手を当てていた母親が『あ、止まった……』とポツリと言った時。なんだかその言い方が面白くて、一瞬、笑ってから、再び泣き喚いた。とても笑える状況じゃないハズなのに、笑った自分に対してかなり驚いたのを覚えている」
一方、著書『芸人人語』(朝日新聞出版)の中で、“笑いの功罪”についてこう書いている。
「笑いとは、単純な感情ではない。蔑みと共感と愛情と憎しみは、同居している。だからこそ笑いは、イジメであり、人を救うモノにもなりうる。だからこそ笑いは、危険なのだ。危険だからこそ人は欲するのだ。笑いは人を傷つけもし、救いもする。笑いは人を殺し、人を生かす」
そんな笑いを、太田は観客に提示し続ける。長年新ネタを作り舞台に立ち続ける中で、落語家・立川談志から掛けられた言葉の重さを痛感するようになったという。
「生前、談志師匠に『漫才捨てるなよ』って言われたことがあります。当時は意味がよくわからなかった。ただ、談志師匠って癌の進行で声を失う直前まで舞台に立ち続けたんですね。そのウラには、芸とは自分が答えを出すんじゃなくて、『立川談志が問いかけたものを、お客がどう受け取ったか』が答えだという考えがあった。
つまり大衆がどう考えるかがすべてであるっていうね。だから最後までお客との繫がりを断たなかったし、古典芸能だからと、守られた世界には絶対に行かなかった。今ではあのときの言葉の意味が少しわかる気がします」(前述の『FRIDAY 2023年 3/3・10合併号』のインタビューより)
あらゆる魅力的な物事には、危うさが潜んでいるものだ。太田はそんな不完全さを愛おしいと感じ、身をもって大衆に自身の笑いを問い続けているのかもしれない。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人のテーマ支援記事です。オーサーが発案した記事テーマについて、一部執筆費用を負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】