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樋口尚文の千夜千本 第71夜「後妻業の女」(鶴橋康夫監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

悪の華を寿ぐ、あの歌がまた聞こえる

映画監督以前の、ドラマ演出家としての鶴橋康夫監督の作品歴は、いわば日本のテレビドラマの成長、成熟期そのものと言っていい。それは齢の近い大林宣彦監督が、映画監督である以前にCMディレクターであり、日本のTVCMの高度成長期そのものであったことにも似ている。ドラマとCMというかたちで昭和のテレビを舞台にやんちゃな創意を発揮していたこの二人の功績は、「電気紙芝居」と呼ばれたテレビの映像に特異なる上質さと味わいを与え、無為に受像機からたれ流されていた映像を「作品」と呼ぶにふさわしい域に高めたことであった。

私が「鶴橋康夫」の名前を決定的に覚えたのは、1976年の浅丘ルリ子主演の連続ドラマ『新車の中の女』だ。ミステリ愛好家ならおなじみのセバスチアン・シャリプゾの原作を、舞台を日本に変えて脚色した作品だが、それまでのテレビドラマの安手の薄っぺらな画とはひと味もふた味も違う、洗練と切れ味のあるショットが機動的なカメラで積み重ねられ、そこで自在な演技を見せる浅丘ルリ子も、従来のスタジオドラマ的なお約束から解放され、とにかく前後の番組と切断されてこのドラマだけが突飛な鮮やさをもってブラウン管をはみ出すようであった(『新車の中の女』は2015年にご当地のフランスで映画化され『アナザー』という邦題で公開されたが、そのスマートな映像主義的なつくりからは鶴橋版テレビドラマのようなアクの強い魅力がぬけ落ちていた)。

この出世作『新車の中の女』の浅丘ルリ子は、鶴橋康夫にとってはファム・ファタル的女優であったと言えるだろう。以後、『かげろうの死』『知床の子』『仮の宿なるを』『危険な年ごろ』『雀色時』などをはじめとする鶴橋康夫=浅丘ルリ子のコンビ作品を80年代から90年代初めにかけて私は絶対に見逃してはならじと追いかけ続けたが、これらいずれ劣らぬ異色の傑作群にあってひときわ壮絶な問題作があった。それは84年に放映された『魔性』で、浅丘ルリ子は同性の若い愛人に裏切られたと思い、彼女を殺し、あげくはその肉を喰らい、やがて死刑に処せられる。ゴールデンタイムに堂々放映されたこの異色作は、当時の私を大いに戦慄させたが、今どきの放送コードではこれを再放送するのは不可能であろうと思い、数年前に特例的に映画館での上映を試みた(何より私自身が再見したかったからであるが!)。

この貴重な機会に三十年近くを経て再見した観客も初見の観客も、息をのんで全篇を見届け、終映後には深甚なる感慨とため息が劇場を支配した。なんと井上由美子氏、大森寿美男氏ほか現在のテレビドラマを代表する脚本家たちが、この鶴橋ドラマと再会すべく客席にいた。劇場は時ならぬ〈鶴橋学校〉と化した。鶴橋演出は、俳優の演技の生々しさをさまざまなアングルからとらえて臨場感ある編集を施し、琥珀のトーンや反射光などテレビ映像の平板さを排除した画調を多用する。鶴橋演出は、ビデオカメラが機動性を高めた技術的変遷によって大いに開花し、かかる映像主義をテレビドラマに導入した点が画期的だった訳だが、それだけのことであれば作品はとうに風化していたかもしれない。鶴橋康夫は、その演出の映像主義の奔放さとは真逆に、脚本家に対しては物語の骨格の図太さ、人物描写の精緻さを妥協なく要求した。それに見事に応えた脚本家は池端俊作であり、故・野沢尚であった。

すなわち、鶴橋ドラマの作法は、緊密で堅牢なシナリオを固めたうえで、それを映像主義で定まらなさの方向におし拡げてゆく、その絶妙の間合いを探ることであった。そのことで何が獲得されるかというと、物語と映像の「多義性」であり、それはそのまま作品を生きる人物たちの生きざまの「わからなさ」につながった。『魔性』の浅丘ルリ子は一見普通のナイーブな女性であったのにその底知れぬ情念に駆りたてられてアウトサイダーとなり、果ては人と人ならざるものの閾をまたごうとする。まことに人は「わからない」存在であり、世俗はその「わからなさ」を不気味なものとして排除しがちだが、鶴橋ワールドにあっては自らの情念や意志のおもむくまま体制や規範を逸脱してゆく「わからない」人物たちに、むしろ全幅の理解と共鳴を表明するようである。

その典型的な場面が『魔性』にも見出される。平和な日々の浅丘ルリ子が夫と愛人とともに旅をする時、その可憐で洒落た姿に、ベット・ミドラーのデビュー曲”Do You Want To Dance?"がかぶさる。やがて彼女は人を殺し、果ては人を喰らうわけだが、鶴橋はこの自らの”魔性”に突き動かされるまま堕ちてゆくヒロインを、実に優しく愛しさをこめて見つめている。優雅で小粋な”Do You Want To Dance?"は、さながら一線を超えてゆく人びとへの賛歌のようである。そしてこの歌は、後の佐藤浩市主演の連続ドラマ『天国への階段』でも流れてくる。今度は、一見人生の成功者ながら心にアウトローの闇を抱え、復讐への執念に傾斜せずにはいられない男を、この歌が穏やかに包みこむ。こうして日常の闇の淵に立つ外道たちに捧げられる”Do You Want To Dance?"は場違いなほど優雅である。だが、それは悲壮さを強調する黒澤映画的な対位法ではなくて、鶴橋康夫はこの暗黒面に傾斜してゆく彼らの生の悪の華を寿ぐようであった。

そして新作の映画『後妻業の女』で、またしてもこの”Do You Want To Dance?"が聞こえてきた日にはしこたま驚いた。鶴橋康夫にとってこれは単にお気に入りの楽曲というのではなく、自らの作品でライフワークのようにアウトローを見つめ続ける、その視座に深くリンクしたものなのだ。そして今回、この歌が捧げられた異色のミューズは、大竹しのぶ扮する救いなき食わせもののペテン師である。鶴橋はかつて、実は大竹しのぶを主人公にした『手枕さげて』『愛の世界』『東京ららばい』といった秀作も放っている。シニアの淋しさにつけこんで、次から次へとちゃっかり資産をまきあげてゆくこの主人公には呆然とさせられるが、父の財産を持って行かれた娘の長谷川京子が(さんざんな目にあわされているにもかかわらず)あの人はとんでもない人間だが、あんなに思いのままに生きてる人を見たことがないと羨ましさすら感じさせるような言葉を囁くのが印象的だ。これは鶴橋康夫の、破滅しようがどうしようが自らの欲望に忠実であり続ける外道たちへの共感を代弁している訳である。

さて、もともと鶴橋ドラマにあっては、欲望や情念に突き動かされた女性が男どもを巻き込んで、ダルな日常の倦怠から暗い血のたぎる犯罪の祝祭へとなだれこんでゆくパターンが多いけれども、そういう意味でも実は『後妻業の女』はいかにも鶴橋的な主題とモチーフからなる内容であり、鶴橋がこの原作に閃きを覚えて即座に映画化を発案したというのもよくよく頷けることだ。そして、おなじみの”Do You Want To Dance?"をテーマソングとして、大竹しのぶと彼女を仕切る結婚相談所の所長の豊川悦司のワル二人がどんな手口でシニアの男性たちを欺いてゆくのかは、ぜひ映画で愉しんで頂きたいが、豊川はこの詐欺を「淋しい老人たちへの功徳」と言ってはばからない。実際、孤独と金と小さなプライドを持て余している老人たちは呆けた顔で大竹しのぶのあくどい媚態にメロメロで、到底不幸せそうではない。それゆえに大竹と豊川の悪行三昧が観ていて痛快爽快になってくるところがミソで、まさにこれが鶴橋ドラマの暖簾の味だろう。ワルも正義も紙一重のこの鶴橋ワールドに、一見ただの正義の味方かという感じで召喚された永瀬正敏の探偵も、期待にたがわぬ「両義性」を発揮してくれるのがまたわが意を得たりであった。

そんな本作は陰々滅々たる暗さとシリアスさで攻めることも多い鶴橋ドラマのなかでは、ごくスラップスティック色の強いものであるが、その快調な語り口の随所に、いかにも鶴橋らしい細部が埋め込まれている。それはたとえば豊川悦司が愛人として掌中のものと思っている樋井明日香が、豊川との性的な交歓のなかで不意に豊川の顔を舌でぺろりと舐め返す不敵な一瞬。あるいは金満家のカモとみた笑福亭鶴瓶の股ぐらの一物を見た大竹しのぶのえげつない表情と哄笑こだます一瞬。流麗な語りのなかで、かかる一種グロテスクな笑いを醸すディテールが、いかにも鶴橋印なのであった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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