「Jリーグがなかったら僕は生きていない」ポルトガル語通訳を約30年 高井蘭童氏が歩んで来た道
「Jリーグがなかったら僕は多分、生きていない」
きらびやかなカクテル光線の下でJリーグが開幕してから30年。鹿島アントラーズで20年間にわたって監督の通訳を担当し、今季からアスルクラロ沼津のコーチ兼通訳を務めている高井蘭童(たかい・らんどう)氏はそう言う。
ブラジル・サンパウロに生まれ、15歳だった1989年に初来日してから34年。Jリーグによって未来が変わったという高井氏が歩んできた道とはーー。
■「サッカーは危険」…両親の方針で勉強漬けの小学生時代
1973年11月8日、ブラジル・サンパウロ州で高井氏は生まれた。両親は日本生まれの日本育ちで、成人してからブラジルへ渡って結婚。高井氏は「日系一世」だ。
ブラジルで日系人といえば、学問で立身するという教育方針を持つ家庭が多い。
「子供の頃は勉強漬けだった。ブラジルでは午前か午後かを選んで授業を受けるので、僕は午前中に学校に行き、午後はソロバンをやったり、公文をやったり、ピアノをやったり。それが終わると夕方5時過ぎ。ブラジルは治安が悪いので、外で遊ぶのは1時間ぐらいだった」
一人っ子だった高井氏は両親が「サッカーは危険」という理由でスタジアムでの試合観戦を禁じていたため、サッカーとは無縁の生活を送っていた。足が速く、陸上競技をやっていたが、球技は苦手。だからサッカーボールを蹴ることもほとんどなかった。
高井氏が高校1年生だった1989年夏のことだった。東京に住んでいた父方の祖母が体調を崩したため、父と日本へ来た。高井氏はサンパウロの空港に着いた時に初めて自分が日本のパスポートを持っていることを知った。
「ブラジルではLANDOW(らんどう)が僕の名前。蘭童という日本の名前があるのを知ったのは空港でパスポートを見た時です」
父からは当初、日本に滞在するのは3カ月だと言われていたが、やがて半年に延び、1年に延びた。この間にブラジルの高校を中退。親戚の計らいで日本の高校の面接を受けたが、「ここで勉強したいですか?」と英語で聞かれ「ノー」と答えたため、不合格になった。
「日本語を喋れないし、聞いてもわからないから、ラジオの『J-wave』ばかり聴いていた。ポルトガル語の『サウジ サウダージ』は毎週聴いた」
日本に来て住んだのは東京都調布市。二子玉川に住む祖母の家と自宅を自転車で行き来していたある日の夜、よみうりランドのライトが目に入ったので近づいてみると、そこは読売サッカークラブの練習場だった。
「ブラジルでは日本のテレビや日系新聞を見て育ってきたので、日本のイメージはバレーボールと相撲と柔道。まさかサッカーがあるとは知らなかった」
ほどなくブラジルから出稼ぎにやってきた友人と一緒に埼玉県の工場に勤務。そこではパートの女性たちにかわいがられて少しずつ日本語を覚えていった。工場にはフィリピンからの出稼ぎの人もおり、英語も上達した。
その頃、高井氏が興味を持ったのが、来日したトム・クルーズの隣に立つ戸田奈津子さんの存在だった。戸田さんが英語を日本語に翻訳して話す姿を見て、通訳という仕事があることを知った高井氏は、小遣いを貯めてCDラジカセとカセットテープ、録音用マイクを購入。トム・クルーズの英語をポルトガル語に訳して吹き込んだ。語学の勉強というよりは遊びの感覚だったというが、遊びは徐々に発展。次は録画したスポーツ番組の英語の実況音声だけを目を閉じて聞いて絵に描き、ビデオを見ながら答え合わせをした。映画でも同じことをやった。
■バブル崩壊で日本での職を失った10代後半
日本に来てから1年ほどが過ぎて1990年代に入ると「バブル崩壊」の影響が自分の仕事にも出るようになってきた。ブラジルにいったん帰り、次に戻ってきた時にはもう仕事がなくなっていた。
友人が国際電話会社を立ち上げることになったため、オペレーターの職にありついたが、日本の学歴社会の壁に跳ね返され続けていた高井氏の心は既に折れていた。
「その当時の僕は、何もやりがいを感じることなく、鬱(うつ)気味になっていた。電話会社の仕事も、行ったり行かなかったりしていた」
欠勤しがちだったが、それでも友人は高井氏を雇い続けてくれた。そうする間に1993年になり、Jリーグが開幕すると、ブラジルのチームが日本で親善マッチを行ったりサッカー教室を開いたりすることが増えていき、日本語とポルトガル語の通訳が必要とされるようになった。
電話会社の社長はイベント業務を請け負う旅行会社に高井氏を紹介。そのつてで通訳の仕事をもらうようになり、道が開けていった。1995年には登録していた派遣会社を通じて柏レイソルで通訳として働くようになり、元ブラジル代表FWのカレカやミューレルらの「家族担当」を任された。その年限りで派遣会社と柏との契約が切れると、1996年に高井氏は個人で横浜フリューゲルスと契約。
1996年からは横浜フリューゲルスで働くようになった。ここではサテライトチームの監督の通訳を任されたが、ひとつ懸案事項があった。グラウンドで監督の通訳を行うにはサッカーの知識が必要だが、高井氏には選手としてのサッカー経験がなかった。そのため、最初のオーストラリアキャンプは試用期間だったが、それを見事にクリア。天皇杯優勝を飾ったその日限りでクラブが消滅した1999年1月1日までフリューゲルスで働いた。
当時は今と比べて日本語の語彙が少なく、サッカーの知識も一般レベルだった。たたき上げでここまで来た高井氏が考える「通訳」の仕事とはどのようなものか。
「通訳はただ言葉と言葉を訳せばいいと思われがちだけど、そうではない。意思や意向、気持ちを訳さないといけないので、直訳では絶対無理。監督が怒った言葉をそのまま訳したら喧嘩にしかならない。監督の指示通りに選手がやらなかったら僕は伝えてないということになる。両者が歩み寄る、納得できる内容にするのが通訳の仕事だと思っている」
これが高井氏の通訳としての哲学だ。
■柏レイソル、横浜フリューゲルス、大宮アルディージャ、鹿島アントラーズ、そして
横浜フリューゲルスが消滅した1999年は、就職先が決まらず、友人と一緒に都内でブラジルの雑貨店を開いて日々を過ごしていた。すると今度は、ブラジル人を獲得することになったためポルトガル語の通訳兼ホペイロを探していた大宮アルディージャから声が掛かり、2000年から正式に大宮のスタッフになった。
2001年にはコンフェデレーションズカップが日本で開催された。大宮のGMを務めていた清雲栄純氏の推薦でブラジル代表チームの通訳となって駆り出された高井氏は、翌2002年もルイス・フェリペ・スコラーリ監督が率いるブラジル代表付きの通訳に指名されてワールドカップ優勝を経験。ところが、ワールドカップを終えて大宮に戻ると、大会期間中もJ2リーグを戦っていたチームは成績低迷により監督が解任されるなど複雑な状況に。高井氏は2002年シーズン限りで大宮を去ることになった。
すると今度は当時、大宮にいた黒崎久志氏が、自身の古巣である鹿島アントラーズに高井氏を紹介してくれた。コンフェデレーションズカップの時にともに仕事をしたことのある鹿島のスタッフも仕事ぶりを評価してくれた。
こうして高井氏は2002年12月31日の朝に鹿島へ行き、その日の練習でトニーニョ・セレーゾ監督の通訳をやった。
「セレーゾが秋田(豊)さんや本田(泰人)さんに『大丈夫か?』と聞いたら2人とも『大丈夫』と言っていた」
実は翌日が天皇杯決勝。鹿島は京都サンガに敗れて準優勝に終わったため、「これで話はなくなった」と高井氏は消沈したが、後日に採用の通知がきた。
高井氏は2003年1月中旬、チームの新体制発表会見で鹿島での“通訳デビュー”。そこから2022年シーズンまでの20年間に、リーグ3連覇(2007、2008,2009年)、AFCチャンピオンズリーグ優勝(2018年)など数々のタイトル奪取を支えた。
■学歴社会の壁にぶつかっていた時期に開幕したJリーグ
日本に来てからの日々を振り返りながら、高井氏はしみじみと言う。
「(国際電話会社)ブラステルの川合健司社長がいなかったら、僕はこの世にいなかったかもしれない。学歴社会の日本で職探しをしても壁にぶつかり、ブラジルに帰るお金もなく、未来像を描けずに苦しんでいる時に、川合さんは『とりあえず何でもいいからやっとけ』と言って雇ってくれた。大宮にいた時に鹿島に口を利いてくれた黒崎久志さんも恩人。多くの人に支えられて今の僕がある」
15歳で日本に初めて来てから30有余年。「こういう未来になることはまったく予想していなかった」という高井氏は最近、首都高を運転して渋滞にハマった時、漠然と看板を読んでいる自分に驚くことがあるという。
「どうやって読めるようになったんだろう、どうやって理解できるようになったんだろうと、不思議に思う瞬間がある。どうしようもなかった自分に未来を作ってくれたのがサッカーであり、Jリーグだった。Jリーグのおかげで僕は生きている」
2013年に結婚し、今では8歳と3歳の子供の父である。
■節目で助けてくれる人がいた
2022年シーズンが終わった11月、高井氏は妻と子供を連れてブラジルへ行った。日本で働くのをやめ、ブラジルで仕事を探そうと考えていたのだ。
ところが、カタールW杯が終わった後の12月下旬。長年、鹿島で苦楽をともにし、現在はアスルクラロ沼津の社長を務めている高島雄大氏がブラジルまで訪ねて来た。
沼津は、富士山の麓である静岡県東部地域から世界へ、というスローガンの下、2025年までにJ2リーグ、そして2033年までにJ1リーグにふさわしいクラブとなることを目標に掲げ、2023年シーズンからクラブOBでもある元日本代表FWの中山雅史監督が指揮を執ることが決まっていた。
高島社長からオファーを受けた内容は、目標に向かってクラブとチームの両方の土台をつくっていくこと。高井氏がJクラブの現場で30年近くにわたって積み重ねてきた「勝つために必要なこと」を沼津に落とし込んでいくことが仕事で、肩書きは「コーチ」となった。
「僕としては、人の家に土足で上がるわけにはいかないから、まずはこのクラブの歴史をしっかり知ったうえで、さまざまな意識改革をうながしていきたい。チームに対しては勝つことに対する意識。鹿島では、30秒でタイトルを失ったり、30秒でタイトルを手にしたり、勝負の世界は舐めたらダメというのを死ぬほど味わってきた。細かいところをおろそかにせず取り組まなければ勝てない。そういう意識改革をできればと思っている」
沼津という新天地で、高井氏は今、やりがいを強く感じている。
「サッカーへの恩返しというのはおこがましい。僕は従業員として何らかの力になっていきたい。今できることを精一杯やっていきたい」
沼津で課されている役割は高井氏にとって挑戦でもある。20年以上前からなんら変わらないひょうひょうとした口調に、新たな情熱がにじみ出ていた。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人のテーマ支援記事です。オーサーが発案した記事テーマについて、一部執筆費用を負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】