【富田林市】興正寺別院修復工事を前に寺内町誕生の隠れた背景に迫る。一族と決別し本願寺派になった僧とは
富田林寺内町は、町の真ん中にある浄土真宗の富田林興正寺別院を中心となって形成されています。町のシンボルのような存在なので、興正寺別院は寺内町でも別格な存在なのですが、最近は入り口に柵があり中に入れなくなりました。
それは、大規模な修復工事を行うからとかで、興正寺別院の公式ページ(外部リンク)より工事の予定を見ると下記のようになっています。確かに本堂屋根を見てもビニールシートが痛々しく張っているのがわかりますね。
- 令和4年4月〜 仮設検討・調整
- 令和6年4月〜 仮設工事
- 令和8年4月〜 本体工事予定
すでに工事が始まっているようで、恐らく来年には本堂などの建物が工事用の足場で覆われてしまいその姿を見ることができません。
本体工事が4年後ということもあり、その工事が全て終わって、新しい寺の姿を見られるのはずっと後のこと。少し残念ですが、仕方がありません。
そこで、まだ工事用の足場がない今のうちに外観だけでもしっかり目に焼き付けておきたいところ。
この機会に、せっかくなので、そもそも興正寺別院がなぜ富田林に建てられることになったのか、建てた人物はどういう人なのかを再確認することにしました。
興正寺別院を富田林に建てたのは、興正寺16世の証秀(しょうしゅう)ですが、そのきっかけになる人物がいます。それは証秀の祖父に当たる蓮教(れんきょう:興正寺14世)です。
歴史を紐解くと、元々興正寺という名前の寺院が京都・山科にありましたが、浄土真宗の本願寺派と決別したために、本願寺から与えられたことになっていた「興正寺」の名前が使えなくなります。「佛光寺」と名前を変えて、山科から京都東山に移転したとか。
本願寺派は戦国時代に織田信長と戦うなど大勢力のイメージが強いですが、一時期は非常に小さい勢力だったそうです。その当時は、浄土真宗の中でも佛光寺派の方が圧倒的にすごかったとか。
蓮教は当初、経豪(きょうごう)という名前でした。父が佛光寺派12世の性善で、叔父の13世光教から、1469年に佛光寺派14世を引き継ぎました。
ところが佛光寺派のトップだった経豪が、1481年にその地位を捨て、本願寺の8世蓮如(れんにょ)に帰依(きえ:その力にすがること)するために、出奔(しゅっぽん:逃げ出して行方をくらます)しました。いったいどういう事でしょうか?
蓮如という人は、それまで非常に勢力の弱かった本願寺派を立て直した人物です。山科本願寺で蓮如が伝えた教えが、浄土真宗の宗祖、親鸞の教えに近いからと、どんどん信者の数を増やしていったとか。
経豪は、佛光寺派からどんどん本願寺派に信者が流れていく理由が知りたくなり、自ら蓮如の話を聞きに行くようになります。その結果、経豪自身が蓮如の偉大さを知ってしまったそうです。
こうして経豪は蓮如の下に行き、本願寺派に入ります。その後改めて山科に興正寺を建てました。この際、蓮教と名前を変え、蓮如の孫にあたる恵光尼を妻とします。また佛光寺に属していた48坊(寺院)のうち42坊が蓮教に従ったそうです。
ちなみに経豪が出て行った佛光寺は、大混乱となりました。急遽、経豪の弟にあたる経誉(きょうよ)が跡を継ぎます。このとき佛光寺14世として就任し、裏切った経豪の存在を事実上抹消(14世を継いでいない)することにしました。
その蓮教が蓮如とともに、本願寺の教えを広めるために各地に拠点を作ります。そのなかのひとつ、応永年間(1394~1412年)に、河内国石川郡毛人谷村(えびたにむら:富田林駅近く?)にて、念仏道場を建てました。
調べると、大正時代までその場所に古御坊という小字(あざ)があったそうですが、実際にはどのあたりなのでしょう?いつか見つけられたら、ご紹介しますね。
ちなみに蓮教が建てた興正寺は、本願寺と行動を共にし、織田信長とも戦いました。1570(永禄12)年、証秀の養子で興正寺17世顕尊(けんそん)の時代には、正親町(おおぎまち)天皇により、興正寺を脇門跡(わきもんぜき)という高い寺の格が与えられました。
また豊臣秀吉の時代には、京都の都市計画の一環として、秀吉の命により寺が移築されますが、それは現在の西本願寺と隣接しており、あたかも一体化しているように興正寺が建てられています。
ここで証秀の時代に戻りますが、彼の時代では、祖父が作った毛人谷の道場での活動の甲斐があり、周辺の村人の多くが本願寺派の信者となっていました。
少し前ですが、大坂の石山御坊で1506(永正3)年に起こった河内国錯乱では、河内出身者が多くかかわっていたとあります。毛人谷の道場の影響が多少なりともあったのかもしれません。
証秀は新たに寺内町を形成することを決めました。1541年頃に久宝寺寺内町が成立したように、戦国時代のころには各地に寺内町が形成されているので、証秀が同じように信者の多いこの地に宗教的な町を作ろうと考えたのは自然の流れだったのでしょう。
証秀が目を付けたのが現在の寺内町のあるところ。当時は、富田が芝(富田林の名前の由来)と呼ばれていた場所です。石川の北西側にあって、少し高い台地状(河岸段丘上)になっていた荒地でした。
証秀は1558(永禄元)年頃に、河内の守護であった畠山政国(はたけやままさくに)の家臣で、古市(羽曳野市)の高屋城を拠点として治めていた安見宗房(やすみむねふさ)と交渉。
青銅銭百貫文で富田が芝を買います。これは現在の価格で115万2000円くらい。実際に払った相手は、松帯刀左衛門を通じ、政国の子で守護の地位であった畠山高政です。一説には、町での特権をもらうために払ったとか。
こうして富田が芝の開発をすることになった証秀は、富田林八人衆と呼ばれる毛人谷村、野村、新堂村、山中田(やまちゅうだ)村の庄屋をふたりずつ呼び寄せ、富田林御坊の建立と富田林寺内町を作りました。
当時は戦国時代で、いつ攻められるかわからないこともあり、他の寺内町同様に富田林御坊を中心に町が作られ、周囲に土居、石垣、竹林、環濠で囲まれて町を守るようにしました。
さらに寺内(寺内町)は様々な特権を得ました。諸役負担の免除や、権力不介入、徳政令の除外等。一般の人々が町を運営し、商業の街として発展します。
このように、簡単に富田林に寺内町ができるまでの流れを追いかけました。
直接寺内町を作るきっかけになった証秀と、その祖父で大勢力のトップの座を捨てて、本願寺派に入り、富田林の地に本願寺派の教えを広めた蓮教のふたりが居なければ、富田林寺内町は存在しなかったかもしれません。
古い町並みについての形成の歴史を振り返ると、街歩きがさらに有意義なものになるのでは?興正寺別院を外から眺めながら、無事に修復工事が終わり、新しくなるまで静かに見守りたいところです。
富田林興正寺別院(外部リンク)
住所:大阪府富田林市富田林町13-18
アクセス:近鉄富田林駅、富田林西口駅から徒歩で約8分