水没被害でも働くベネチア 市民に広がる水害との「共生」
「水の都」と称されるベネチアは、イタリア北東部の世界遺産の街だ。一方で「沈みゆく街」として知られる。昨年10月、暴風雨によるスーパー高潮で水位が156cmに上昇。街の7割以上が浸水し、11人が死亡した。なぜ近年、水害が深刻化しているのか? まずは最新の動画をご覧ください。
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■水没した街を走り抜けるマラソン
2018年10月28日のベネチアマラソンは、意外なことで世界に報道されることになった。水に浸かったコースを各国のランナーが走りぬけたからだ。日本の川内優輝選手も、ラスト3キロは靴を浸しながら激走した。
翌29日には被害が拡大し、街の約75%が浸水。水位は最大156cmにまで上昇し、1872年の観測以来4番目に高い記録となった。通常2時間くらいでひく浸水は14時間も続き、浸水時間としてはこの150年で最悪となった。
■ピザ屋も書店も営業を続けた
翌30日、浸水したまま営業しているピザ屋があった。意外なことに店内は観光客らで満席。店員は両手にピザを何皿も掲げて、テーブルを回っていた。楽しそうにピザをほおばる客。その足元は水浸しで、みな長靴を履いている。次から次へと新しい客が来店するその様子は、まるでコメディー映画のようだが、営業していたのはこの店だけではない。いくつもの店が浸水したまま営業を続けていた。
街の中心部にある「アクア・アルタ(高潮)書店」もその一つ。世界のユニークな書店第2位に選ばれた名店だ。店内の本の一部は水に濡れないように、ゴンドラやバスタブの中に陳列されている。経営者はリーノ・フリッツォさん。父親が書店を開いたとき、すでにアクア・アルタ(高潮)が時々おきていたため、浸水から本を守る目的で、ゴンドラなどを本棚にするアイデアを思いついた。
それでも、昨年10月のようなひどい高潮の時には、裏口の水路から大量の海水が流れ込む。ゴンドラやバスタブの上まで浸水することもあるため、本の一部は海水まみれになる。濡れてしまった本を裏庭に積み上げることが習慣になり、それが意外なことにインスタスポットとして話題になって、現在は観光客が殺到するようになった。
父親の時代、高潮時には店を閉めていたが、フリッツォさんが継いでからは、基本的に営業している。
「長靴を履いたお客さんがゆっくり歩きながら本を探す光景は日常さ。子供の頃、高潮は特別だったけど、今は共存するしかない。それがベネチアなんだ」
■水の都を襲う年80回の高潮
もともとベネチアでは、10月から12月にかけて低気圧の影響で雨がふりやすい。これに強い南風と満潮が重なると、大きな高潮がおき、街に被害をもたらす。かつては冬の風物詩だった高潮被害だが、近年は6月や8月など一年を通して起きるようになった。
原因は温暖化による海面上昇だ。2018年の国連IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書によれば、1901年から2010年までに世界の海面は平均19cm上昇。ベネチアでも90年代以降、高潮が120cmを超えることが増えた。多い時には、大小の高潮が年80回以上も街を襲う。一方で地下水の汲み上げによる地盤沈下も起きており、被害を深刻化させている。
■長靴とアプリが必須アイテム
市民の対策は主に2つ。1つは頑丈な長靴だ。ベネチア本島は車も自転車も入れないため、移動手段のメインは徒歩。そのため長靴が重要になる。中には魚河岸でつかうような長靴を常備する人もいる。
ベネチアに13年在住する日本語教師の鞠古 綾(まりこ あや)さんは
「職場では私を含めて全員が長靴を常備しています」と話す。上半身はスーツで下半身は防水状態で通勤してくる同僚も多いという。
さらに重要なアイテムは「高潮アプリ」だ。ベネチア市が24時間体制で高潮予報を発信しており、市民はアプリをダウンロードし日常的にチェックしている。
「ベネチアに住んでいると重要なのは天気ではなくて高潮です。朝も夜も明日の高潮は何センチよ、という会話をしています。子供がいると特に大変で、浸水しないルートを確保しなければ安心して学校にもいかせられません」
■市民を守る対策は
リアルト橋近くにある「ベネチア市の潮位センター」は、重要な行政機関だ。24時間体制で潮位を警戒し、警報を発信する。警報はアプリに加えて、市内の大きなベルの音や電光掲示板などを通じて人々に知らせている。同時に、病院や警察など関係機関に連絡。さらに島内のあちこちの路地に、高さ50cmほどの「渡り台」を出す。この渡り台がなければ、人々は島内を移動することもままならない。まさに街の命綱だ。
潮位センター所長のアルヴィーゼ・パーパさんは
「ベネチア人の生活は運河とともにある。潮位があがれば食材や病人の搬送も困難です。市民を守るのが僕らの使命です」
■頼みのモーゼ計画は暗礁に
2003年、当時のベルルスコーニ首相の発案で始まった「モーゼ計画」がベネチアの救世主となるはずだった。沖合に巨大な78個の可動式の堰を建設し、高潮発生時に海底から立ち上がって水をブロックする。「3mの高潮にも対応できる」と政府の肝いりで始まった。旧約聖書でモーゼが海を割って人々を逃した逸話に着想をえた壮大な計画だったが、現在、計画は暗礁にのりあげている。
規模が大きいため汚職にまみれ、2014年にはベネチア市長を含む35人が贈収賄で逮捕。予算は当初の16億ユーロから55億ユーロ(約6820億円・1ユーロ124円で換算)に膨れ上がった。2022年に稼働予定だが、先行きは不透明だ。
生粋のベネチア人であるアレサンドロ・マンテッリさんは、モーゼ計画では街を守れないと考えている。
「ベネチア人はモーゼをよく思っていない。堰の中には海水で壊れているものもある。それに、モーゼが防ぐのは110cmから3mのスーパー高潮だけなんだ。100cm以下の日常的な高潮には対応してない。完成しても被害は続くのでは」
■水害と共生へ
抜本的な対策は講じられていない中で、住民は現実を受け入れ「水害との共存」に向かっている。水害のたびに仕事を休む訳にはいかない。14世紀から営業する最高級の老舗ホテルでも、高潮時には高さ50センチの渡り台をロビーに設置し、ホテルマンは上質なスーツに魚河岸のような長靴で接客を続けている。書店から最高級ホテルまで、水害と共存しなければ生きていけないベネチアの姿がそこにはある。
■ベネチアは世界都市の未来像?
国連IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の2018年報告書によれば、2100年までに世界の平均気温が1・5度上がった場合、1986~2005年の海面より26~77cm上昇するとされている。
世界の大都市は海辺に近いところが多い。それゆえ、水没のベネチアは「未来予想図」とみることもできるだろう。ベネチアを知ることは、今後の対策を考える上で重要になってくる。