【幕末こぼれ話】司馬遼太郎『新選組血風録』の美少年隊士・加納惣三郎は実在していた!
司馬遼太郎の小説『新選組血風録』中の「前髪の惣三郎」は、加納惣三郎という美少年隊士が登場し、その美貌で男たちを魅了する艶めいた一編である。
ただし、現在確認できる新選組関連の史料には、加納惣三郎という隊士の名はどこにも見られず、そのため加納は小説にだけ登場する架空の隊士と解釈されてきた。
ところが、『新選組血風録』よりずっと古い大正13年(1924)に出版された吉田喜太郞の『維新史蹟図説』中に、すでに「加納惣三郎」という一編があり、加納の生涯が詳しく綴られていることがわかった。謎の隊士加納惣三郎は、実在していた可能性が大いに高まったのである。
『血風録』とは随分異なるキャラクター
『維新史蹟図説』を読んで気づくのは、ここに登場する加納惣三郎は『新選組血風録』とはキャラクターがだいぶ異なっていることだ。前述したように『血風録』では男性を魅了する危ない美少年という設定になっているが、『図説』ではそういうことは書かれていない。
美少年ぶりだけは共通していて、同書によると加納の生い立ちはこのようである。
「惣三郎は押小路の木綿問屋越前屋の二男であったが、そろばんをはじくのが大嫌いで、武張ったことが何よりも好き、幼少の頃から竹刀を持って、近所の道場に通い、一生懸命に稽古していた甲斐あって、数年後には師匠の代稽古を申しつけられ、その後は好んで浪士の群れに入り、ついには新選組の隊士に加入し、隊務見習いとして隊長の秘書役に採用せられたが、惣三郎は十八の前髪立ち、黒羽二重の小袖紋付き、献上博多の帯を締め、細身朱鞘の大小を落とし差しにしたそのうるわしい姿は、宛ながら錦絵から抜け出たようであった」
島原の遊女に入れあげた末路
しかし、『維新史蹟図説』に書かれた加納は、男をたぶらかすようなことはなく、普通に女性が好きだった。新選組隊内で小頭格に昇進すると、いつしか島原遊郭通いに夢中になり、輪違屋の錦木太夫のもとに通い詰めるようになった。
そこまではまだよかったが、やがて手持ちの金が尽きると、夜な夜な島原田んぼに出没し、裕福そうな酔客を斬殺して所持金を奪っては錦木のもとに通ったのである。これにより恐れて島原に出向く客が減ったというから、加納の罪はあまりにも重かった。
新選組局長の近藤勇は、探索の末に下手人が加納であることをつかみ、腕利きの隊士田代に加納を討ち果たすよう命じた。ところが翌日、いつまでたっても帰ってこない田代の身を案ずると、逆に島原田んぼで眉間を斬り割られて死んでいるのが発見された。
これには近藤も我慢できず、副長土方歳三を呼び、加納を処分するよう密命を下したのだった。加納は以後は隊内で目立たぬように、夜中に屯所を抜け出して錦木のもとに向かい、翌朝までに密かに隊に帰ってくるという細工をこらしたが、土方にその尻尾を捕らえられる。
その末路は、『図説』によればこのようである。
「惣三郎は屯所の塀を飛び越えて、錦木のもとに走り、翌朝早く昨夜の移り香を肌にしめつつ、屯所の前に帰り、猿(ましら)のごとく塀を飛んで、帰ったところを土方歳三らは左右より惣三郎に斬ってかかり、みるみるうちに惣三郎は斬り斃されてしまった」
島原の美女に入れあげたあげく、身を滅ぼした哀れな隊士の最期だった。
この加納惣三郎が、本当に実在の隊士であったかどうかの判断は難しい。ただ『維新史蹟図説』をよく読むと、すべての項目がなんらかの根拠にもとづいて書かれており、その意味では加納の記事も著者吉田喜太郞の作り話とは考えられないのだ。
記事の末尾には、「今にこの惣三郎の話は今牛若丸として、島原付近の話柄に上っている」と結ばれている。加納惣三郎は実在したのではないか――、私にはそう思えてならないのである。