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5冠の池江を支える指導者の存在

萩原智子シドニー五輪競泳日本代表
5冠を達成した池江璃花子(ルネサンス亀戸)(写真/中村博之/PICSPORT)

日本選手権5冠達成

日本選手権最終日。100mバタフライ決勝で池江璃花子(ルネサンス亀戸)が優勝した瞬間、女子選手として史上初の5冠達成に会場が大きく沸いた。

「タイムはあまり良くなかったんですけど、こんなにタフなレースをこなすことができて、5冠を獲得することができて、本当にいい経験ができたなと思いました」

今大会は、50、100、200m自由形、50、100mバタフライにエントリーし、4日間で計10レースを戦い抜いた。16歳にして池江がまた歴史を動かした。

5冠の難しさ

複数種目で勝負するためにはタフでなければならない。レースが進むにつれて、疲労が蓄積される。池江の場合、心身共に疲労がピークとなる最終日に2種目を残していた。

過去に私も、日本選手権での4冠を経験したが、最終日は全身に疲労が溜まり、ストレッチをしても、クールダウンをしても、体は重たくだるいままだった。体に刺激を入れ、スタート台へ立ったのを覚えている。

今回、5冠を達成した池江がエントリーした種目に目を向けると、50mと100mの種目が2本ずつ、200mの種目が1本とスプリント能力を求められるレースが多かった。

大会3日目、3種目めの優勝を飾った100m自由形の決勝レース直後には「今までで一番きつかった」と疲労をにじませていた。短距離種目は泳ぐ距離こそ短いが、瞬発力が求められる分、筋肉には相当のダメージを与える。まさに極限状態での5冠達成。その事実こそが一流スプリンターの証といえる。

池江を支えたコーチ

そして、池江の5冠達成を語る上で欠かすことのできない、一人の存在がある。池江を指導する村上二美也コーチ(ルネサンス競泳チームヘッドコーチ)だ。「今回は5つ獲るのが目標でしたから。スケジュール時間も分かっていたので、とにかくレース間はリラックスさせていました。ただ昨夜は疲労から食事もとれない状態で。追われる立場で勝たなければならなくて。今までとは違った重圧はあったと思いますよ。よく頑張りました」と池江を評価した。

「村上コーチは特に私にプレッシャーをかけるようなことは言ってこなくて。絶対、おまえは大丈夫って、常にポジティブに声をかけてくれたので。本当に私は周りに、できるって言われて、できるようになるタイプでもあったので、そういうところから、力になったなと思います」と話すように、池江も絶対的な信頼を寄せている。

二人の出会い

池江と村上コーチの出会いは、池江が小学6年で参加した日本水泳連盟主催のエリート小学生研修合宿でのこと。「東京都で地区が一緒なので、知ってはいましたけど、エリ小(エリート小学生研修合宿)の時なんかは、本当に泳げなくて、ベソかいていたんで。まじまじと見たのはそのときです」と当時を振り返る。

村上コーチは、練習には弱い印象が強かった池江の泳ぎを見て驚いた。「とにかく泳ぎは上手だったです。キャッチングであったり、肘の高さであったり、僕らが教えても、なかなか出来ない選手が多い中で、センスとか感覚がある選手だと思いました」と池江の能力を認めていた。

池江が小学6年で全国優勝し、もっと上を目指そうと思っていた時、指導を受けていた東京ドルフィンクラブの清水桂コーチが母・美由紀さんに、「できればここにいてほしいけど、もっと上を目指すのであれば、ここじゃない方がいいのかもしれないですね」と移籍を認めてくれた。

移籍先は納得した形で決めたいと「5つのスイミングクラブを見学しに行きました。璃花子を連れて体験レッスンを受けたり。村上先生はエリート小学生合宿のヘッドコーチを何年もやっていらっしゃったり、雑誌を読んでも、人間的成長をきちんとしてくれる方だと思ったので。璃花子の将来にとっていいのではないかと思いました」と村上コーチの元へ移籍を決めた。

母・美由紀さんは「指導者として落ち着いていて、浮付いているような方ではなくて。璃花子の見本に導いてくれる人格をお持ちだなと思いました」と村上コーチの魅力を話す。

指導者「村上二美也」

池江を指導する村上二美也コーチ(写真/中村博之/PICSPORT)
池江を指導する村上二美也コーチ(写真/中村博之/PICSPORT)

「村上二美也」とは、どんな人物なのだろうか。

秋田県に生まれ育ち、甲子園を目指す高校球児として青春を過ごした。卒業後、上京とともにスポーツ指導者の専門学校へと進み、これまで縁のなかった水泳の世界に飛び込んだ。水泳の経験はなかったが、必死で勉強し、スイミングスクールでの指導は、0歳から86歳までと幅広く経験した。

しかし、その後の人生は順風満帆ではなかった。勤務していたスポーツクラブが経営難に陥り、解雇された経験もある。職場を転々とし、本格的に選手の指導を始めたのは、5カ所目となるスイミングで勤務を始めた30代後半になったときだった。

「今は、楽ですよね。控室ひとつとっても、ボタンひとつで温まる。昔は、タイヤボイラーと言って、タイヤを窯に入れて熱源をだしていたんです。タイヤを貰いに行く仕事もあったし、秋田では雪が積もったら、それをかいてタイヤ100本くらい出して、窯に入れて、火入れて、朝の7時くらいに着火して。朝3時から、夜の水中指導まで入って。色々な経験があったから、今、何があっても耐えられる、苦しく感じないですよ」と笑って話す。様々な経験をする中で成長し、指導者としての引き出しを増やしてきたことで、今がある。

人間力の向上

まさに波乱万丈の指導者人生を歩んできた村上が、トップスイマーに求めるものがある。それが『人間力の向上』だ。「水泳を通して人間的にも成長してもらいたい、社会に出たときの方が、時間が長いですから。挨拶ができない、言葉遣いが悪い、そんなトップはいません」。

昨年のリオデジャネイロ五輪前、村上のもとに池江が相談にやってきた。「色んなことがあってね。相談があるって。ボロボロ涙を流して。ちょっとした行動が誤解を与えて、誹謗中傷されたらしいんです」。

そのとき村上は、池江に1枚の紙を手渡した。『選手が好印象に見える行動(応援してもらえる選手)』と題した紙にはトップスイマー10ヶ条のほか、「人間力を成長させて下さい」というメッセージが記されていた。トップスイマーになれば、周囲の視線は多くなる。時には誤解を与えることもあるだろう。だからこそ『人間力』を向上させなければならないと、世界を狙う教え子に諭したのだ。同時に、村上は池江に対して、こう伝えた…「守るのはコーチだから。それは間違いないからね」。

世界水泳に向けて

「夏も一本一本集中して、記録も狙って。100mバタフライは、特にメダルも目指して頑張りたいと思います」と池江。村上コーチも「表彰台へ上がりたいですね。表彰台へ登ることで、世界へ近づくイメージができると思うし、自信にもなると思います」と世界水泳での目標を掲げている。

同時に「上半身に比べて足が弱い。陸上でジャンプしたりしますが、はーはー言っている状況です。まだまだやっていないことがいっぱいなんですよ」と村上コーチは、今後の課題も挙げている。課題があるということは、伸びしろがあるということ。池江は、無限の可能性を秘めている。

インタビューエリアでの受け答えは、質問した記者の方に体も向けて対応する誠実な姿を見ることができた。村上コーチの「人間力向上なくして、競技力向上なし」の言葉を胸に、世界トップスイマーに向けて、心身共に成長中だ。

彼女が世界で戦う姿を早く応援したい。夏が待ち遠しい。

シドニー五輪競泳日本代表

1980年山梨県生まれ。元競泳日本代表、2000年シドニー五輪に出場。200m背泳ぎ4位。04年に一度引退するが、09年に復帰を果たす。日本代表に返り咲き、順調な仕上がりを見せていたが、五輪前年の11年4月に子宮内膜症・卵巣のう腫と診断され手術。術後はリハビリに励みレース復帰。ロンドン五輪代表選考会では女子自由形で決勝に残り意地を見せた。現在はテレビ出演や水泳教室、講演活動などの活動を行っている。

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