【富田林市】河内長野にある観心寺の正成首塚からスタートして一族の菩提寺、楠妣庵観音寺まで行ってみた。
富田林の最南端の地域は甘南備(かんなび)地区です。かんなびという地名は実は全国各地にあるのですが、場所によっては神奈備と書き、古代では神霊の鎮まる場所という意味があるそうです。そういった場所の多くは小山や森であるとか。
富田林の甘南備には、楠木正成の夫人だった、久子夫人ゆかりの寺「楠妣庵観音寺(なんぴあんかんのんじ)」があります。今回そのお寺を訪ねて行きましたが、少しイレギュラーな方法で行ってみました。
楠妣庵観音寺まで公共交通で行く一般的な方法は、富田林駅から金剛バスに乗り、甘南備バス停で下車することです。
バス停から楠妣庵観音寺はすぐのところにありますが、今回はあえてこの方法では行きませんでした。
今回はこのルートを使いました。河内長野から千早赤阪村を経由して楠妣庵に向かったのです。
なぜこんなことをしたかといえば、河内長野の観心寺には楠木正成の首塚があります。そこから妻であった久子さんの墓がある楠妣庵まで行ってみようということでした。
ということで観心寺の境内にある楠木正成の首塚の前からスタートします。
観心寺で参拝を済ませると、いよいよ楠妣庵に向かいます。ところで、観心寺から途中の小吹台まではバスを使いました。
歩いても良かったのですが、車の交通量がそこそこあるのと、せっかくバスがあるので、終点まではバスに乗り、そこから歩いて目指すことにしました。
バスは河内長野駅から観心寺を経由して小吹台まで行くバスがあります。今回は観心寺バス停から小吹台までバスに乗りました。
終点の小吹台バス停まで来ました。ここからは歩きます。
小吹台は千早赤阪村にありますが、新興住宅地とだけあって、私がイメージする道の駅ちはやあかさか周辺や金剛登山口バス停周辺の千早赤坂とは雰囲気が違いますね。
ここから住宅地を離れ右側の道に入ります。
住宅街の端をぐるっと周って進みます。
マンホールの蓋には太平記の村との表示がありますね。
小吹台は標高250メートル地点にあり、標高150メートル地点にある甘南備までは下りがメインです。そのため今回とは逆方向、楠妣庵側から目指すのは大変かもしれません。
竹林の中を下っていきます。下りがメインというのと、車の通行量が少なく、日陰も多いので、歩く分にはそれほど苦労しませんでした。ただ虫が多くてそちらが大変でした。
山をひたすら下っていくという感じでした。
山を下りて行くと、小吹のバス停に出てきました。これは金剛バスが吉年(よどし)まで繋がっているので、その途中にあります。バスの本数が少なくなければ、ここからバスに乗って甘南備バス停まで行っても良いのですが。
大阪府道の209号線、東阪三日市線に出てきました。ここからは交通量が多くなります。
やがて富田林市内に入りました。
佐備川支流の中津原川の谷に続く道です。機会があればこの道の下には何があるか見てみてもよさそうですね。
甘南備地域に出てきました。楠妣庵観音寺まではあとわずかです。
楠妣庵観音寺の前に出てきました。この前に甘南備バス停があり、帰りはここからバスに乗って富田林駅に向かいました。
こちらは参道の途中にある楠母子の像です。昭和10年に皇居外苑にある正成像の制作を指揮した彫刻家・高村光雲(たかむら こううん)の高弟・岩崎光仁により作られました。
像の意味ですが、湊川の戦いで敗れた楠木正成の首が河内に送られてきたとき、正成の嫡子・正行(まさつら)はそれを見て自害しようとしますが、母の久子が「朝敵(ちょうてき)を滅ぼせとの父の遺訓を忘れたか」と命がけで諭したという太平記の場面を再現したものです。
楠母子の像の横にある階段から上がります。ここで臨済宗妙心寺派の寺院でもある楠妣庵観音寺についておさらいしましょう。
1339年に崩御した後醍醐天皇を悼(いた)んだ楠木正行は、河内国石川郡甘南備にあった峰條山の一角の地を浄めて後醍醐天皇の念持仏であった千手観音を安置し、観音堂を建てました。
その後、1348年には正行とその弟正時が四條畷の戦いで討死します。ふたりの母で正成の妻であった久子は、千手観音を安置したこの場所に草庵を建てて隠棲(いんせい)します。
階段を上がったところです。久子の死後、正行の弟である楠木正儀は、不二房行者という人物をを住持(じゅうじ=寺の主僧)として、観音堂を観音寺と改め、楠木一族の香華寺(こうげじ=菩提寺)としました。
ちなみに不二房行者とは藤原藤房(万里小路藤房)で、後に臨済宗の僧となって授翁宗弼(じゅおうそうひつ)と、名を変えたという俗説があります。実際に楠妣庵観音寺の開山者は授翁宗弼とされます。
明治初期に廃寺となり、いったんは敷地内が田畑になりますが、大正時代に岐阜県出身の加藤鎮之助という人が土地を購入し、草庵や本堂を再建します。
こちらは1922(大正11)年に建てられた本堂です。
こちらの恩光閣は、庫裡(くり)や客殿などに使用されているもので、昭和御大典大礼の建物を宮内省より下賜(かし:与えられる)され、この地に移築したそうです。
境内の様子です。草庵(楠妣庵)や久子の墓はさらに上にあります。
こちらの階段を上がります。
田畑だったものをここまで再興した、加藤鎮之助の像です。
階段をあがりました。こちらが久子が晩年を過ごした草庵「楠妣庵」ですが、実際には大正時代に再建されたもの。
東京帝国大学の伊東 忠太(いとう ちゅうた)の設計により、鎌倉末期の建築様式を再現したそうです。また昭和天皇が東宮(皇太子)時代に行啓(ぎょうけい)しました。
同じく伊東 忠太設計により建てられた観音堂です。久子の念持仏(ねんじぶつ=身に着けていたり、身辺に置いてある仏像)であった十一面観音が祀られています。
こちらが久子の墓とされる場所です。こうして首塚から公共交通だけを使ってここまで来ました。
ということで、イレギュラーな方法で、楠妣庵観音寺に行ってきました。ここは紅葉の隠れた名所というので、また晩秋に再訪したいところ。
ところがすでに秋になってきているのか、ごく一部のモミジが赤く色づいていました。
楠妣庵観音寺
住所:大阪府富田林市甘南備1103
電話番号:0721-35-5161
入山時間:9:00~17:00(季節により変動あり)
入山料:大人:200円、上人:100円
アクセス:近鉄富田林駅からバス 甘南備バス停下車徒歩5分
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