還暦は“折れない心”の折り返し地点[杉本篤彦インタヴュー]
2023年5月5日、神奈川・横須賀のライヴハウス“Younger Than Yesterday(ヤンガー・ザン・イエスタディ)”で、“60th Anniversary Live”と銘打ったライヴが開催された。60という“節目”を迎えたのは杉本篤彦。37年のプロ歴のあるギタリストだ。ジャズやソウル、ポップスに歌もののプロデュースと、マルチな才能を発揮して音楽界の荒波を乗り切ってきた彼に、その“音楽人生”の振り返りと、“還暦”という前世紀的なバイアスを打ち壊し、新たなミュージシャン像へと向かう意欲について語ってもらった。
“節目”の還暦記念ライヴを終えて
──先日(5月5日)、神奈川・横須賀のYounger Than Yesterdayで行なわれた“Birthday Live”を拝見しました。誕生日の当日開催で、60歳になられたんですよね?
杉本篤彦:はい、なりました(笑)。
Sugimoto Atsuhiko 60th Anniversary Live@Younger Than Yesterday
出演)杉本篤彦バンド:杉本篤彦(gt)、加納奈実(sax)、進藤陽悟(pf)、都啓一(key)、西沢譲(gt)、納浩一(b)、正岡淳(ds)、大河原亮三(per)、ゲスト:櫻井省吾(vo)
──誕生日ライヴって、恒例なんですか?
杉本篤彦:いえ、“Birthday Live”と銘打ってやったのは……、3回目ぐらいかな。
Birthday Liveって、やるのは楽しいけれど、なんか恥ずかしかったりするじゃないですか。お客さんに来て欲しいけど、プレゼントを用意してくれたりするから、気を遣わせるのが申し訳ないなぁと思ったりするんですよ。でも、今回は60歳の“節目”ということなので、やろうかな、と。
──8人編成というのも、気合いが入っていたことを示しているように感じました。
杉本篤彦:僕の音楽はいろんなジャンルに手を広げているので、どうしても多種多彩になる傾向があるんですよね。それでだんだん人数が増えちゃって(笑)。
僕、ライヴで大事にしていることがあるんです。自分の音楽は基本、メゾピアノで表現したいと思っているんですよ。あのBirthday Liveはメンバーに「好きにやって!」って言ってて、人数分だけ音が大きくなってましたけど(笑)。でも、普段はいわゆるガンガン系じゃないんですよ。
──確かに、都内で拝見する4〜5人編成の杉本バンドは煽ってくる感じではないですね。
杉本篤彦:ソウル・ミュージックって、そういうものだと僕は思っているんです。ジャズだって、メゾピアノから始めたほうがいい。最初からフォルテシモだと、表現の幅が……。
──Younger Than Yesterdayはもともと映画館だったということもあるのか、かなりライヴなハコですけれど、音圧をうるさく感じなかったのは、そういう杉本さんのポリシーもあったからだったんですね。
杉本篤彦:確かに、ロック・バンドだったらグワングワンになっちゃうでしょうからね。それはそれでピッタリなんだけど。
あの日の編成で、ピアノもアコースティックじゃなくエレピにしてもらって、サックスには思いっきり吹けるようにと、バランスを考えてみました。
アメフトに明け暮れてしまった学生時代
──音楽的な遍歴をうかがいたいのですが、東京の出身、確か築地でしたよね?
杉本篤彦:実家が築地で料亭というか、すき焼き屋をやっていたんです。店を始めたのは第二次世界大戦後で、お座敷のあるすき焼き屋を祖母と母が営んでいました。ただ、僕が物心つくころにはもう店は閉じてしまいましたが……。そのまま店をやっていたら、僕も板さんで店を継いでいたかもしれません(笑)。なので、料理はいまでも嫌いじゃないです。
──小さいころの音楽との触れ合いはどうでした?
杉本篤彦:そうですね……。ザ・ビートルズの白黒の映像とか、加山雄三さんとか……。
祖父母と葉山に行くことが多くて、プールサイドのステージでグループサウンズが演奏しているのを観ていた記憶があります。
そうそう、母親が終戦後にオフィサーズクラブ(米軍の士官用施設)に出入りしていたこともあったせいか、いつも洋楽が流れているような家庭だったんですよ。ジャズのビッグバンド系が多かったかな。ベニー・グッドマン、トミー・ドーシー、ウディ・ハーマン……。いわゆるムーディーな感じの音楽ですね。いまだにそういうのが好きだったりするんですけど。
そのあと、市ヶ谷に移ったんですが、そこで前田憲男さんの次男と仲良くなって、彼の家へ遊びに行くと前田憲男さんの仕事場にはいろんな楽器があるもんだから、いい遊び場だったんですよ(笑)。中学生ぐらいまで、そんな感じでしたね。
──なにか習い事は?
杉本篤彦:小さいころは、水彩画やクラシックのピアノを習っていました。絵を描くのは性に合っていたんですが、ピアノのほうは……。だから続きませんでしたね(笑)。
で、中学に入ってから剣道を始めたんですが、肘を骨折してしまって……。いまでも実は左手の小指がちょっと動かしにくいんですよ。
そのケガのときに、リハビリにいいからって友人がクラシックギターをプレゼントしてくれたので、ギターの練習を始めたんです。それでギターに興味が湧いたところ、前田憲男さんの息子さんがクラシックギターじゃなくてエレキギターをもっていたんですよね。ギブソンのレスポールとか、フェンダーのストラトキャスターとか、僕らでは手が届かない外国製の高級品を、ね(笑)。
それで彼に、そのギターを弾かせてもらったんです。そのときに出た音が、理想の、というか、自分が好きな音だった。小さいころにプールサイドで聴いたグループサウンズのエレキギターの音というか、ウェス・モンゴメリーというか、ね。家でも、ウェスのCTIのころのレコードがしょっちゅうかかっていたから。
それで、エレキギターが欲しくなって、なんとかお金を貯めて、国産の安いヤツでしたけど、買いました。
──何歳のとき?
杉本篤彦:15歳、中三かな。
そのころは、ジャズというよりはイーグルスとかクイーンとか、アメリカンロック、それにソウル・ミュージックだとディスコ・ブームでしたからね。「ル・フリーク」を弾いていたナイル・ロジャースとか……、ジョージ・ベンソンなんかを聴いて、「カッコいい!」と思いながらギターを触っていましたね。
──それで自分も演奏する側になろうと?
杉本篤彦:演奏する人になってみたいとは思っていました。なので、高校に入ったらバンドを組むつもりだったのが、あの……、僕、中学でちょっとヤンチャだったので(笑)。ある事情で「アメリカンフットボール部に入るなら」という話になっていて、まぁ、一週間ぐらい在籍すればお役御免というか、どうせ身体は小さいし、僕なんかアメリカンフットボールは向いてないと思っていたので、言われるとおりにすることにしたんです。
ところが足が速かったので、けっこうハマってしまって……。先輩にも可愛がられるようになっちゃって、そのままずっとアメフトをやり続ける羽目に(笑)。
──それで大学もアメフト推薦で?
杉本篤彦:いや、大学は正規のフットボール部だと練習がきついから嫌だったんですよ(笑)。それで、芸術学部に行こうとしたんです。
──日大芸術学部ですね。音楽学科に?
杉本篤彦:それが、文芸学科志望だったんです。本を読むのも好きだったので。でも、高校時代はフットボールしかやってなかったから、当然のごとく点数が足りず、統一テストを受けてギリギリで文理学部の体育学科に入れました。
まぁ、そのころは音楽をやって生きていくのは夢のまた夢だと思っていて、趣味でできればいいから、体育の教師にでもなろうかな、なんてね。教員免許、取れませんでしたけど(笑)。
そんな大学時代、日大って各部にフットボール同好会があるんですよ。そこに誘われて4年間、またまたフットボール漬けで(笑)。
卒業するときもそんな感じだったので、日産パルサーズって、当時の強い企業チームにスカウトされて、そこに行くことになってたんですけど、もう身体のほうはボロボロで、膝をケガしたこともあって、だったら音楽でもやって生きていこうかな、と。
──どんな音楽をやっていこうと?
杉本篤彦:ソウル・ミュージックですね。それで、クラシックギターは基礎としてやっていたので、ジャズも学んでおいたほうがいいかなと思って手を付けてみたんですが、聴いただけじゃ理解できなかったんですよ、ジャズって。これは勉強しないとダメだと思って、のめり込んでいきました。
──前田憲男さんのところへは行かなかったんですか?
杉本篤彦:あ、一応、「プロとして音楽をやっていきたいです」とは伝えました。ギタリストというより、最初は編曲とかそういう仕事をやろうと思っていたので。
なんとか仕事をもらえるようになって、CMやYES’89 横浜博覧会の音楽を担当したりと、25〜26歳ぐらいのころには案外、儲かってたんですよ(笑)。
ところが、しばらくすると、そういう仕事をやっている自分に行き詰まっちゃったんです。
注文どおりに仕上げなくちゃならないというのもそうだし、テレビや街中で自分が手がけた音楽が流れていても、なんか実感が湧かなかったりで……。
そんなときに出逢ったのが、ベーシストの広瀬文彦さんだった。
広瀬さんが担当している音楽教室のクラスで、サポート役のギターをやるようになったんですが、これがまるで弾けないんですよ。聞いたことがあるスタンダード曲なのに、ぜんぜんダメでしたね。
そんなようすを前田憲男さんが人づてに聞いたらしくて、「あっちゃん、大丈夫か?」なんて心配されてましたけど……。なんたって広瀬さんは日本の戦後ジャズの第一世代、怖い人でとおってましたからね(笑)。
でも、おかげでみっちりとジャズをマスターすることができて、広瀬さん門下の人脈とも知り合うことができたんです。
──マスターすると言えば、杉本さんの代名詞である独自の“ツー・フィンガー奏法”ですが、あれはいつからやっているんですか?
杉本篤彦:クラシックギターも学んだので、自分としては指で弾くのはあまり特別なことだとは思っていません。コードをバラバラに弾くときは指のほうが弾きやすいですからね。
ピックを使わない奏法に興味をもったのは、ウェス・モンゴメリーを知ってからかなぁ。ウェスが右手の親指だけで弾いていると知ったときはビックリしましたからね。
そういう弾き方があることを知ったときに、たまたま僕は普通とは逆向きにピックを持って演奏していたんですが、そのピックを落としてしまった。その指の形のままで弾いたら、意外と速く弾けたんです。あ、これ、いいな、って(笑)。でもこの弾き方って、腱鞘炎になるんですよ。
──負担が大きい?
杉本篤彦:人差し指に無理な力がかかるので、腕の筋をやられちゃうんですね。でも、ウェスを聴いてビックリしたときの、あのダイナミクスを出すことができた。これなら、僕が好きな管楽器のようなダイナミクスを表現できると思ったんです。ベン・ウェブスターみたいな、呼吸を感じる演奏。それと、マーヴィン・ゲイやダニー・ハサウェイみたいな歌い回しに近づけるぞ、と。
──1990年にはニューヨークへ行ってますね?
杉本篤彦:ええ、何度か行き来して、もう住んじゃおうと思ったりもしていたんですが、ミュージシャンが食えるような感じではなかったので、帰ってきました。
──1995年に日本での活動を再開。
杉本篤彦:まぁ、それまでやっていたCMの仕事とか、ライヴの仕事もちょこちょことあったんですが、そこで一回、自分の活動を見直してみようと思って、デモテープを作ったんです。それが最初のアルバム『Crab-Apple』につながった。それをメディアが取り上げてくれて、何枚かアルバムを作るようになりました。
そうしていくうちに、なんとなく自分にはサポートというより、自分でバンドを組んで活動するほうが合っているというか、それで食えるようになってきたというか、ね。
音楽はアメフトの“地獄の練習”よりもツラい?
──それから現在に至る活動があるわけですが、23歳でプロになって、60歳のいままで37年間を振り返って、自分の“音楽人生”ってどんなものだったと思っていらっしゃいますか?
杉本篤彦:そうだなぁ……。音楽の道に進む前、アメリカンフットボールをやっていたときは、練習に追われる毎日が地獄のようなものだったんですが、実は楽しい想い出しか残っていないんですよ(笑)。
──逆に?
杉本篤彦:ええ。ところが、音楽のほうは、音を出しているときは楽しいんだけれど、思い出してみると「ツラい」と感じていたことのほうが多かったみたいで、なるべく思い出さないようにしている自分がいる(笑)。
──反省点があるからですか? それともやり残し感のせい?
杉本篤彦:なんだろうなぁ……。練習は楽しいんですよ。いま、ギターを触るようになっていちばん練習しているんですけどね。もう、楽しくて……(笑)。
アメリカンフットボールに限らず、スポーツって、実力が伴えば結果がついてくるじゃないですか。なのに、音楽って、どんなに用意周到に準備しても、それが必ずしも報われるわけではないから……。
僕はこんな経歴なのに、先輩や同世代にも受け入れてもらって、ジャズの最前線で活躍している人たちとも交流があるわけです。それはそれですごく楽しいんですが、音楽のもうひとつの大きな目標として、ヒット曲を出したいというのがあるんですね。ギターのインストゥルメンタルのヒット曲。もちろん、それが難しい世界であることも承知していますし、宝くじを当てるようなものなんだろうけど、スタンダードとして世の中に残るような曲を作りたいという目標があるんですよ。
だから、あとどのぐらい活動できるのかわからないですけれど、なんとかその目標に、少しでも近づけたらいいなぁと思っているんです。
その宿題が残っているので、自分の“音楽人生”を振り返ると、悶々としたものが残っていると感じているのかもしれませんね。
──なるほど、アメリカンフットボールだったらやりきった感をもてたり実力差で諦めることができるけど、それが音楽だとままならないことがある、と?
杉本篤彦:そうそう。アメフトは運もあるけど、基本的には実力があれば勝てるし、なければ負ける。同じポジションを争っても、相手より僕のほうが足が速ければ試合に出られるし、相手が僕よりパスを取るのが上手ければ僕は出られない。そういうのが音楽にはないんじゃないかと思うんですよ。
──これは杉本篤彦さんの音楽にボクが惹かれるのはなぜなのかを考えるうえで、ぜひ聞いておきたいと思っていたことなんですが、杉本さんのキャッチーで聞きやすい、ポップな音楽性というのが、シャリコマじゃないかと言われることに対して、本人はどう思っているのか、と。
杉本篤彦:シャリコマ?
──コマーシャリズム、つまり仕事と割り切ってやっている音楽に寄りすぎているんじゃないか、と。聴きやすい音楽って、芸術性の点では“商業的”と言われることも多くて、一段低く見られがちだったりするじゃないですか。
杉本篤彦:なるほど。
──そうなると、杉本さんの目標と言っているヒット曲が、「売るための曲を考えて提供する」と受け取られてしまうんじゃないかと思ったんですね。でも、それと、「自分のなかからあふれるものをより多くの人に聴いてもらいたい」という動機から生まれるものとでは、ぜんぜん違うわけじゃないですか。
杉本篤彦:確かに。その質問にひと言で答えるならば、「いつも自分のやりたい音楽をやってきたし、これからもそうする」ということでしょうね。
自分がいちばん好きだと思う音楽をやり続けて、そのなかから名曲を残したい、というのが正直な思いなんです。
──その大きな思いのための、もうちょっと細かい部分で考えていることを教えていただけませんか?
杉本篤彦:そうですね……。僕はね、ジャズのビバップって、まだ行き着くところまで行っていないと思っているんですよ。それは、最高に美しいトゥー・ファイヴのフレーズをどんなシチュエーションでも弾けるようなレヴェルになれることだったり、ね。それはそれでスゴいことで、リズムも含めてコード感をどう表現するかとか、いろいろやれることはまだまだ残っていると思っているから。そういうことを考えるのが好きなんですよ。
それにしても、成功したくないミュージシャンなんて、いるんでしょうかね?
──いないんじゃないでしょうか。“成功”の定義はともかく、表現者なら、誰もがより多くの人に聴いてもらいたいと思っているはずですから。
杉本篤彦:売れたら好きなことができるよ、なんて言いますけど、それも本当かなと思っていて……。僕は売れる前から好きなことをやっていて、与えられた仕事を断わったこともある。生きているあいだって、自分の願望とか欲望に正直にというか、それがないとダメなんじゃないかな。
それも、ただ願うだけじゃ弱いと思う。野球選手になりたいとか、僕の場合ならギタリストになりたいだけじゃ、ダメだと思うんです。世の中って、そう上手くはいかないから、自分に降りかかってくる運命を受け止めながら、乗り越えて前に進んでいく“なにか”がないとね。それが、正直に好きなことを見据えてやっていく、ということなんじゃないかな。そういうことを、いままでも、これからも、生きているあいだ、音楽をやっているあいだ、大切にしていきたいと思っているんです。
──実際に演奏に際して、その正直さというのはどう関係しますか?
杉本篤彦:例えばアドリブを弾くときに、流れてきた音に逆らわないこと。それが100%実践できているわけじゃないんですけれど、手癖で流すようなことをせず、自分のなかで浮かんできた音を素直にぜんぶ出すことを心がけているんです。
これが100%と言えるようになったら、もう満足ですね。演奏にしろ音楽のスタイルにしろ、自分から湧き上がってくるものに逆らわないでやっていきたいと思っています。
──プロとして37年で60歳、これから37年後だと97歳になるわけですが、そのときも現役ギタリストって、冗談ではなくなってきてますよね(笑)。
杉本篤彦:以前は「人前で演奏できるのは70歳ぐらいまで」と思っていたんですけど、確かに、寿命が延びてますからね(笑)。細胞が老化しないような治療や老化現象の元になる物質を取り除く研究がどんどん発達するだろうし。そういう話、僕、好きなんですよ(笑)。
いまと同じ状態で演奏できるのであれば、続けたいですね。もちろん、作曲活動も。あと、過去の巨人たちとセッションできるようになるかもしれないし。そんな時代になっても演奏を続けられていたら、楽しいですよね。
でも、やっぱり生の魅力は変わらないでしょうね。そういうヴァーチャルな可能性が広がれば広がるほど、パッと楽器を手に取って自由に演奏できることが貴重になっていくんじゃないでしょうか。まぁ、そういう時代になればなるほど、我々のような生身で演奏している人間の価値が上がってくれると嬉しいんですけれど……(笑)。
──きょうは興味深いお話をいろいろとうかがうことができました。ありがとうございます。
公式ホームページ https://sugimotoatsuhiko.jimdosite.com/
杉本篤彦 60th Anniversary Live 2023.5.5.1st Stage
杉本篤彦 60th Anniversary Live 2023.5.5.2nd Stage