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私は私のすることをする。『ファーザー』アンソニー・ホプキンスの豪快な俳優人生

清藤秀人映画ライター/コメンテーター
窓際のアンソニー。『ファーザー』より

コロナ禍に公開された『ファーザー』その反応は?

 コロナ禍の下、当初の予定通り5月14 日(金)に日本で公開された映画『ファーザー』だが、東京都内の劇場では観客の約6割が女性で、その内訳はシニア中心だったという報告が届いている。しかし、筆者が直接足を運んだ5月18日(火)の東京、渋谷のBunkamuraル・シネマでは、性別、世代に関係なく多くの観客が詰め掛け、ソーシャル・ディスタンスが保たれた客席はほぼ満席。果たして、彼らは認知症を本人の主観映像を交えて描いた映画をどう受け止めたのか?自分にも訪れるかも知れない厳しい現実を覚悟した人もいれば、親を介護した経験を主人公の娘、アン(オリヴィア・コールマン) に重ね合わせた人もいるだろう。あの時、母は、父は、こんな気持ちでこんな風景を見ていたのか、という驚きと共に。記憶というものがどう失われ、本人の意識と他者から見た言動との間に生じる乖離を、絶妙な場面転換と配役で描く映画は、性別や趣味嗜好を超えて人を強く惹きつける力を持っている。これは記憶にまつわる1級のホラー映画でもあるのだ。

5月18日(火)のBunkamuraル・シネマでの『ファーザー』開映前(筆者撮影)
5月18日(火)のBunkamuraル・シネマでの『ファーザー』開映前(筆者撮影)

 世界中で上演された自作の戯曲『Le Pere 父』を、映画化のために劇作家で監督でもあるクリストファー・ハンプトンと共に脚色した監督のフローリアン・ゼレールは、様々物議を醸した今年のアカデミー賞で見事脚色賞に輝いている。舞台では表現できなかった認知症の知覚と視覚を、映画だけに許された素早い転換力で表現したゼレール&ハンプトンの大胆な筆力に、まず敬意を表したい。しかし、最大の功労者はゼレールがこの脚本を捧げた主演のアンソニー・ホプキンスであることに疑いの余地はない。言うまでもなく、異例のアカデミー賞授賞式のラストを欠席という形で締め括った主演男優賞受賞者である。

 我々は上映時間がたった97分の『ファーザー』で、ホプキンスの段階演技を堪能することができる。認知症というものが、いかに素早く着実に人間の脳を衰えさせるのかを目撃することができるのだ。名優の演技は分かりやすく且つ的確だ。

 ロンドンのアパートで一人暮らしをしている80歳のアンソニー(ホプキンスと同名で誕生日も同じ設定だ)は、近頃、物の置き忘れが酷い。彼はそれを他人のせいにしている。娘のアンからロンドンを離れてパリで新しい結婚生活をスタートさせると聞かされても、そこに至る経緯を忘れている。だから、アンは父親を介護人に託したいと考えている。さもなければ老人ホームに入れるしかないのだ。

認知症を主観映像で描くとこんなに怖くなる!

 さて、ここまではよくある認知症の老人と娘のやりとりである。しかし、映画はここから反転攻撃を仕掛ける。アンソニーのアパートにある日突然見知らぬ男が新しい住人として現れたり、アンだと思っていた女性が突如別人に変わったり、等々。監督のゼレールが観客をも欺く主観映像を使って認知症の症状を描く時、疑問が驚きに置き換わる瞬間をホプキンスがとても明確に演じている。そして、驚きはやがて嘆きとなり、最後、観客はアンソニーが置かれた本当の立場を客観視することになるのだ。ラストで彼が見せる表情は、老いた人間が最終的に行き着く先を示していて、心が痛む。そうやって、カメラが写す世界は変化しても、一貫して衰えゆく人間の悲哀を演技で伝えようとするホプキンスの計算し尽くされた演技は、紛れもなく昨年度最高の仕上がりだ。彼を観るだけでも価値があると言い切れるほどに。

アンとアンソニー。『ファーザー』より
アンとアンソニー。『ファーザー』より

 いつも台詞は完璧に頭に入れてから現場に入るというホプキンスは、デビュー以来60年間続けてきたそのルーティンを今回も守った。役柄と同じ職業をリサーチすることで役作りに生かすような、いわゆるメソッド演技を否定する彼は、ただ、ゼラールが送りつけてきた脚本に惚れ込み、ロンドンのウエスト・ケンジントンに用意されたロケ地のアパートに、毎朝早起きして向かうのを心から楽しんだという。本番では、『自分もアンソニーと同じ年頃だから(83歳)、演じるのは実に簡単だったよ』とは本人のコメントである。

Twitterにダンスをアップするホプキンスの愉快な近況

 いったい、アンソニー・ホプキンスとはどんな俳優なのか?ここで改めて60年のキャリアを簡単に紐解いてみたい。イギリスはウェールズのポートダルボットで、パン屋を営む父親の下で育った彼は、イギリス演劇界に君臨する高学歴の俳優たちとは一線を画す、いわゆるワーキングクラスの出身だ。伝説の名優、ローレンス・オリビエに見出され、ロイヤル・ナショナル・シアターに招かれ、『死の舞踏』(67)で虫垂炎に倒れたオリヴィエの代役を務めたのが29歳のとき。『リア王』などのシェイクスピア劇でも才能を発揮したホプキンスだったが、舞台で繰り返し同じ役を演じることにうんざりしていた彼は、あっさり映画に活躍の場を移す。そうして出演した作品は歴史劇の『冬のライオン』(68)から犯罪サスペンスの『ジャガーノート』(74)、戦争アクション『遠すぎた橋』(77)からサイコホラー『マジック』(78)まで幅広いが、その実力に見合った作品と役柄には巡り会えなかった。その後、再び舞台に戻って彼にとって最後のステージとなる『M バタフライ』(89)に出演後、待っていたのが『羊たちの沈黙』(91)への出演オファーだった。彼に初のアカデミー賞をもたらした最高の当たり役である。

 つまり、レクター博士と出会うまでのホプキンスのキャリアは決して順調ではなかったのだ。それを機にロンドンを後にしてロサンゼルスへ移住した彼は、『日の名残り』(93)、『ニクソン』(95)、『アミスタッド』(97)でオスカー候補となり、『2人のローマ教皇』(19)で久々にオスカーレースに参戦した後、『ファーザー』で2度目の栄冠を勝ち取った。

 去る4月、オスカー受賞の知らせを、亡き父親の墓参りのために訪れていた故郷のウェールズで受け取ったホプキンスだが、最近はオフィシャルのTwitterにサンバを踊ったり、ピアノを弾くセルフィー映像をアップして、お茶目な姿を積極的に拡散している。けっこう苦労も多かった人生のクライマックスを、今、最高の栄誉を得て自由に、奔放に謳歌しているその姿は、『ファーザー』で演じた世界とは真逆に見えるけれど、本当のところは本人のみぞ知る、である。

 実は、『ファーザー』の後に3本の新作をすでに撮り終えていて、1本はクライム・サスペンスの『The Virtuoso』(21/IMDbの評価は10 点満点で4.9)で、ホプキンスが演じるのは殺し屋に新たなミッションを指示する謎めいたボス役。2本目のスリラー『Zero Contact』(21)はすでにバンクーバーでクランクアップしていて、3本目も同じスリラーの『Where Are You』(21)はポスト・プロダクションの最中にある。生涯最高の名演を披露した後に、調べた限りではB級っぽい作品を連続してチョイスするなんて、流石に自由で奔放なサー・アンソニー・ホプキンスなのである。

 以下に、ホプキンスがこれまでメディアの質問に対して答えた印象的な言葉を並べてみた。短いフレーズの中に彼ならではの演技論と人生観が表されていて、『ファーザー』に感動し、震えた人の手引きになるかも知れない。

ウェールズ人にはイギリス人には見られない演技の才能があります。イギリス人にはハートがない。

芝居をするのはまだ楽しいですが、私にはもう課題はありません。一生懸命やっていますが、自分の人生を捧げているわけではありません。期限内にギャラが支払われ、良い監督の元で良い脚本を得られれば、私は楽しむことができます。それだけだよ。

アカデミー賞を受賞するのは楽しいし、ナイト爵位を得るのも楽しかった。しかし、朝起きると現実はまだそこにあります。死に向かっているという現実が。

どうやってハンニバル・レクターを演じるかって?そうだね、動かないことかな。じっとしていることで人々を怖がらせるんだよ。

ロンドンは60年代スウィングの中心地だと言われていますが、私にとってはそうではありませんでした。私が覚えているのは、水曜日の午後、ウォータールー・ロードに立ち込める灰色の霧です。あまりにも憂鬱だったのでドナルドダックの国に引っ越しました。

私の哲学はこうです。人が私のことを何と言おうと、何と思おうと、私には関係ありません。私は私であり、私は私のすることをする。私は何も期待せず、すべてを受け入れる。そうすると、人生がとても楽になるんです。私は "良い映画を作っておいて良かった、今度は悪い映画を作れる!"と思っています。

今年2月、英国アカデミー賞に輝いた際のホプキンス
今年2月、英国アカデミー賞に輝いた際のホプキンス写真:REX/アフロ

『ファーザー』絶賛公開中

(C) NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINÉ-@ ORANGE STUDIO 2020

映画ライター/コメンテーター

アパレル業界から映画ライターに転身。1987年、オードリー・ヘプバーンにインタビューする機会に恵まれる。著書に「オードリーに学ぶおしゃれ練習帳」(近代映画社・刊)ほか。また、監修として「オードリー・ヘプバーンという生き方」「オードリー・ヘプバーン永遠の言葉120」(共に宝島社・刊)。映画.com、文春オンライン、CINEMORE、MOVIE WALKER PRESS、劇場用パンフレット等にレビューを執筆、Safari オンラインにファッション・コラムを執筆。

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