原子力事業の健全な発達を促す原子力規制のあり方
原子力規制のあり方には、哲学的に高度な難問があるのですが、改めて、原子力規制は原子力事業の健全な発展のためにあるとの基本前提を考え直す必要があるでしょう。
「異常に巨大な天災地変」
「原子力損害の賠償に関する法律」の第3条は、「原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない」と定めています。
この但し書きにある「異常に巨大な天災地変」の具体的な意味については、法律の制定時から多くの議論がなされてきて、2011年3月11日の東京電力福島第一原子力発電所の事故に際しては、改めて根源的に再検討がなされました。その結果、事業者にも、政府にも、その他の誰にも、原子力事故の責任を負えない事態であることが明らかになったのです。
例えば、超巨大な火山の噴火が発生し、日本全体が厚く火砕流に覆われるときには、誰にも原子力事故の責任を負えないのですし、そもそも、そのよう事態において、事故の責任を問うこと自体に、何らの意味もないわけです。
絶対に発動され得ない但し書き
法律は、当然至極のことながら、原子力事故によって損害が発生したときは、事業者は絶対に必ず責任を負うと定めているのであって、第3条の但し書きは、政府にすら責任を負い得ないような極限的状況における免責を定めているだけなので、現実的には、不要無用の規定なのです。
実際に、第3条の但し書きが発動したときは、第17条に、政府責任として、「被災者の救助及び被害の拡大の防止のため必要な措置を講ずるようにするものとする」とだけ定められていて、事業者が責任を負わないときは、政府も責任を負わないことになっているのですから、原子力損害の賠償という法律の目的からは、意味のない事態になるわけです。
原子力事業者の責任と政府の責任
法律の最も重要な核心は、第16条に規定されている政府の責任であって、そこには、政府は、「原子力事業者に対し、原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助を行なうものとする」とあります。法律を素直に読む限り、第3条において、原子力事業者の第一義的責任が明確にされ、第16条において、援助という形態での政府の第二義的責任が規定されているので、福島の事故に際して、第16条を発動させた民主党政権の菅首相は、そのように国民に説明したわけです。
しかし、その後の事実の展開から明らかなように、損害賠償額は、あっという間に巨額に累積していって、一民間事業者にすぎない東京電力の負担能力を著しく超過してしまうわけですから、現実的には、東京電力に替わって、政府が賠償の代行を行うほかないのです。故に、2012年12月、自由民主党政権が復活したとき、安倍首相は、真っ先に福島を訪問し、政府が前面に出ると宣言したわけです。
つまり、法律上は、菅首相が断言したように、第一義的責任は事業者にあり、政府は第二義的責任を負うのですが、現実的には、政府は、最初に代行して責任を負い、責任を果たした後で、長い時間をかけて、事業者に弁済を求めるほかないわけで、故に、安倍首相は、責任履行の時間的な前後関係を意識して、前面に出るという表現を用いたわけです。
事故防止の仕組み
第3条は、原子力事故によって損害が発生したとき、事業者の故意や過失を問題とすることなく、端的に損害賠償責任を発生させています。この無過失責任のもとで、事業者は、事故防止対策に万全を期していたとしても、事故が起きて損害が発生すれば、責任を免れないのですから、万全の上にも万全の備えをもって、安全対策に取り組むことになるはずです。実は、法律の真の目的は、事故防止へ向けた事業者の真剣な行動を促すことにあるのです。
そして、法律は、事故が起きて損害が発生すれば、自動的に、政府に事業者を支援する義務を発生させますから、政府は、事業者を厳格に監督して、その安全対策を徹底せしめるように、強く動機づけられるわけです。しかも、法律の構造上、政府の責任も無過失責任になるので、いかに監督を徹底していたとしても、政府は責任を免れないのです。
では、原子力規制が事故後に抜本的に改革されたという事実は、政府の監督に不備のあったことを意味するでしょうか。事故の後に明らかとなった事実と経験からは、必ず事故防止の新たな方法が発見されますから、その発見に基づいて、原子力規制が改革されるのは当然です。しかし、事故の前に明らかであった事実と経験に基づいて、同じ規制改革が事前に実行できたはずはありません。
むしろ、事故以前の原子力規制は、その時点で知られていた事実と経験のもとで、十分な合理性を有していたと考えるほかなく、それにもかかわらず、無過失責任のもとでは、東京電力と政府は責任を免れないということです。
無過失責任のもとでの過失の有無
非常に難しい高度な論点ですが、無過失責任のもとでは、過失の有無が問題になり得ないという問題があります。ただし、東京電力については、事故後、第三者による複数の調査が行われていて、それらの報告書によれば、原子力規制に反して、安全管理を怠っていたという事実は指摘されていないので、東京電力に過失があったとはいえないのです。
問題は、政府の監督のあり方であって、原子力規制に欠陥があったのであれば、それに準拠していた東京電力に過失はなくとも、規制を定めていた政府には、重大な過失があったことになります。実は、この点については、損害賠償に関する限り、論ずべき実益がないこともあって、必ずしも明瞭になっていないのですが、報告書のなかに、「規制の虜」の指摘のあることは、無視し得ないでしょう。
「規制の虜」
原子力事業のように、最高度の技術的専門性が要求される領域においては、事業者は、情報、経験、知識等について、規制当局を圧倒的に凌駕しますから、逆に圧倒的に劣後する規制当局には、そもそも、監督できるだけの能力がないとも考えられるわけです。「規制の虜」と呼ばれるのは、この構造的な矛盾のことです。
「規制の虜」のもとでは、規制当局は、表面的には事業者を監督しているようでも、実質的には、事業者側の知見に支配されて、事業者の都合を反映した規制基準を適用しているだけで、真の監督機能を発揮できない疑いがあります。そして、実際に、規制当局と東京電力との関係に、「規制の虜」が指摘されているということは、実は、東京電力が遵守していた規制基準は、実質的に東京電力自身が定めたものだった可能性があるということです。
「規制の虜」の克服
現在の原子力規制委員会は、証明責任を徹底的に原子力事業者に課すことによって、「規制の虜」を回避していて、敦賀発電所2号機の新規制基準への適合性確認審査において、その姿勢が非常に明瞭に現れています。つまり、敷地内の断層の活動性、および原子炉建屋直下を通過する破砕帯との連続性について、原子力規制委員会は、事業者である日本原子力発電に対して、一貫して、その不存在証明を求めてきたのです。
確かに、事業者の側に危険の不存在証明を要求すれば、「規制の虜」は回避できますが、不存在証明が著しく困難であることを考えれば、適合性確認のなされる可能性は極めて小さいのです。実際、敦賀発電所2号機に限らず、稼働停止中の全ての原子力発電所について、簡単には再稼働できない状況が続いています。
これは非常に難しい問題ですが、改めて、「原子力損害の賠償に関する法律」の目的に帰る必要もあるでしょう。実は、第1条は、「この法律は、原子炉の運転等により原子力損害が生じた場合における損害賠償に関する基本的制度を定め、もつて被害者の保護を図り、及び原子力事業の健全な発達に資することを目的とする」と定めていて、「原子力事業の健全な発達」を掲げているのです。