新元号「令和」の典拠「梅花の宴」とはどんな宴? 梅から見えてくる中国との結びつき
「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」。新元号「令和」の典拠となった万葉集の一節だ。原典を辿ると、これは730年(天平2年)正月13日に開かれた宴の描写であることがわかる。今の福岡県、大宰府にあった万葉集を代表する歌人、大伴旅人の邸宅であった「梅花の宴」である。
一体、どのような宴だったのか。太宰府展示館によると、当時、九州全体を司る役所が太宰府にあり、大伴旅人はそのトップとして派遣されてきた「中央官僚」だった。彼を中心に優れた歌人としても知られた山上憶良ら計32人が集まり、酒に酔い、邸宅に咲き誇った梅の花をめでたという。
「いまでこそ、梅の花は当たり前のように日本に咲いていますが、当時は中国からやってきた流行の最先端とも言うべき花。最先端の文化を象徴する花だったのです」(同館)
太宰府は外交の入り口としての役割も担っていた。大陸や朝鮮半島からやってきた渡来人も行き交う都市で、海外との文化交流の窓口であり、まさに東アジアの文明のクロスロードだった。
「梅花の宴は、当時の先端文化である中国、漢詩でもめでている梅をテーマに歌を詠もうという宴です。歌を詠むというのは貴族の教養であり、気持ちを表現するものであり、ときに政治ともつながるものだったのです。決してどんちゃん騒ぎというものではなかったのです。梅があるというのは、渡来の文化を知っている、教養を知っているという象徴的な意味合いもあったのではないでしょうか」
「梅花の宴」は先端の流行を意識し、積極的に取り入れた文化的水準の高い宴だったようだ。