「カーリングが大好きなんです」と笑うスキップ・藤沢五月が求めるメダルより大切な「次のゲーム」
「Bookworm」という英単語がある。日本語でもそのまま「本の虫」と使える表現だが、本を食い入るように読む人物のことだ。
平昌五輪代表のロコ・ソラーレ北見のエース、藤沢五月はどういった選手でどんなキャラクターか。そうと聞かれると「カーリング・ワーム」という言葉が浮かぶ。
2011年、名寄で開催された日本選手権で初優勝した時の控え目な笑顔や、初めてジャパンのA代表として挑んだ南京のパシフィック選手権(現在はパシフィック・アジア選手権)での苦い経験、ソチ五輪出場を逃した時の涙や、16年の世界選手権で銀メダルを獲得した後のかすれ声etc……。
彼女を取材させてもらってからのハイライトはいくつもあるが、最も強いイメージは、特別な大会でない普通の日、誰もいないリンクで、黙々と淡々とストーンを投げている姿だ。
コーチを相手にしていることもあったが、大抵は一人だった。ウインドチャイムに似た器具を氷上に置いてストーンの挙動をチェックすることもあった。本人は気づいているだろうか。そういう時の彼女は常にうっすらと笑みをたたえている。
5歳で始めたカーリング
藤沢五月は1991年、その名の通り5月に生まれた。出身は北見市内だが、常呂中学で数学の教員をしていた父・充昌さんがカーラーだったので、小さな頃からホールには通っていた。
「あんまり記憶はないんですけど、聞かれたらカーリングを始めたのは5歳と答えています」
本人は覚えていないようだが、充昌さんによると大人のリーグ戦に出たがって、効いていないスイープを懸命に繰り返していたらしい。
父をコーチにして小学生時代は姉や兄のチームでリード、セカンド、サードを経験し、中学時代にスキップに。高校時代にはジュニア選手権を制した。世界選手権に進み、その時のコーチに出会いまたカーリングが楽しくなったと本人は振り返る。
当時のコーチとは、現在は選手として4REALでプレーする阿部晋也だ。
「結果はあまり良くなかったけれど、毎試合後のミーティングで話した反省とか改善点は、次の試合で必ず良くなっていて驚いたのをよく覚えています。若いのにクレバーな子、という印象だった」
ジュニアの大会では今も圧倒的にテイク戦が多い。ゲームのほとんどがハウスの中に石を入れては打っての応酬だが、この時に藤沢はガードの効果的な置き方、ジュニア以降の攻める戦術のヒントを掴んだ。
高校卒業後、中部電力に就職し同社のカーリング部の創設メンバーとして活動を始める。この時のコーチは現在、SC軽井沢クラブのコーチとして指揮を執る長岡はと美コーチだ。故郷を離れた軽井沢の地でとにかく石を投げ込んだ。
「父が日本で勝たせてくれて、阿部さんが世界を見せてくれて、はと美さんが世界の戦い方を教えてくれて、JDが世界での勝ち方を教えてくれた」
藤沢は歴代の師についてそう語る。
JDとは現在のナショナルコーチ、ジェームス・リンドだ。国内外でジュニア世代の指導経験が豊富なJDも「五月はクレバーなスキップだ」と評したことがあるが、多くの指導者と出会い様々なカーリングに触れる度に、彼女は伸びてきた。
一方でプライベートな彼女の素顔はほとんど知られていないが、報じられていないというよりは報じるべき情報が足りない。プライベートもあのまま、カーリング漬けだからだ。
藤沢に趣味や休日の話を聞くといつも困ったように笑う。中部電力時代にはゴルフに手を出したが、「全然、ダメでした」と言っていた。公式プロフィールの趣味の欄には「500円貯金」とあるが、おそらくひねり出したものだろう。ロコ・ソラーレに入ってからアロマテラピーの資格は取ったが「その先のインストラクターやセラピストになるためには講習を受けないといけないので、カーリングをやりながらはちょっと難しいかも」と半ば諦めている。
恋人は「ストーン」
アイスの外では優柔不断で、流行にもそこまで頓着しない。ストーンが恋人で、趣味はカーリング。特技も旅のきっかけもカーリング。“ブライアー”と呼ばれる男子のカナダ選手権をセント・ジョーンズという田舎町まで一人で観戦に行ったこともある。飛行機が遅延して空港泊を余儀なくされても、「行って良かった。楽しかった」と声を弾ませる。
五輪に向けた最後のオフも常呂のホールに足を運び、年越しカーリングというイベントにまで参加した。彼女の生活のプライオリティでカーリングに勝るものはない。青春も生きがいもカーリングの半生だ。
「ふふふ。大好きなんです、カーリング」
少し照れながら、彼女はそう言う。カーリング娘とは当時、チーム青森や現在のチームメイト本橋麻里への呼称だったが、今、その称号にあらゆる意味でもっとも相応しいのは彼女かもしれない。
「練習量を信じてプレーしました」
11年の日本選手権初優勝後、藤沢は勝因をそう語った。誰よりも投げ込んだ自負があったのだろう。そこから彼女が率いる中部電力は4連覇を達成している。
しかし、その自負は15年夏、ロコ・ソラーレに移籍してすぐ、いい意味で打ち砕かれる。
「まず思ったのは『本当にこんなにトレーニングするの?』でした」
藤沢はロコ・ソラーレの第一印象をそう述懐する。
「体幹からアウターからランニングまで。練習メニューを見て驚き、それを毎日、こなすメンバーにもびっくりしつつ、刺激を受けて私も頑張りました」
中部電力時代にはデリバリーが中心だったが、そこに身体の強さを加えたこのシーズン、藤沢は新スキップとしてロコ・ソラーレを牽引。チーム結成以来、初の日本選手権王座へ導く。勢いそのままに世界選手権では男女通して日本史上初となるメダルを獲得した。
帰国後、クオリファイした時の気分を聞くと「ああ、もっと試合できるなと思った」と答える彼女は、おそらく何も変わっていない。カーリングを始めた5歳から大人のゲームに出たがり、ジュニアでも中部電力でも「世界へ」「メダルを」というよりもっとシンプルな、「たくさんゲームをしたい」が彼女のガソリンだ。それは五輪の舞台でも同じだろう。
カーリングには特有のルーティーンがある。
ショット前、自分の投げる石の番号を確認する。しゃがんでハックに足をかけ、石を裏返し接氷面を円を描くように掌で撫でる。石の裏の氷の粒や小さなゴミを払うためだ。その後で一度、視線を上げてハウスの中でブラシを立てて待つ仲間を見る。ストーンの軌跡をイメージして、ハックを蹴ってストーンと共に身体をラインに出す。ルーティーンというよりも、無意識下の作業といったほうが正しいかもしれない。多少の動きの差はあるが、どの選手も必ず行う。
しかし、藤沢のキャラクターやほとばしるカーリング愛を知ると、その一連の振る舞いは単なる動作ではなく、ハウスに神妙な祈りを捧げる巫女のようにも映る。
その願いは明確だ。
「大好きなカーリングをまだまだ、たくさんできますように」
8年越しの大舞台。予選リーグは3試合を消化して、日本は3連勝。首位に立っている。総当たりの予選リーグ、残りは6試合だが、3勝3敗でも決勝トーナメントの可能性は十分だ。
メダルは欲しい。表彰台には立ちたい。しかしそれは彼女にとってあくまで「もっとたくさんゲームを」のおまけなのかもしれない。大好きなカーリングをもっともっとするために、カーリングワームの行進は続く。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】