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西本拳太「アイツがいたから」、同期の桃田を追い続けて初の五輪切符=バドミントン

平野貴也スポーツライター
29歳で初の五輪出場を確実にした、男子シングルスの西本拳太【筆者撮影】

 バドミントン男子シングルスの西本拳太(ジェイテクト)が、パリ五輪に挑む。パリ五輪の出場権は、4月末までの1年間の成績を基にした五輪レースランキングを基準に与えられる。一つの種目に同じ国から出場できるのは、最大で2人。日本は、同種目で奈良岡功大(NTT東日本)が1番手で五輪出場を確実にしている。4月30日の更新で正式にランキングが確定するが、西本は11位で終える見込み。同じ国から2人出場するために必要な16位以上に2人入る条件を日本勢2番手で満たす。

 最後は、相手の結果待ちだった。西本は、3月の欧州3連戦を終えて帰国。五輪レース最終戦となる3月のアジア選手権に備えていた。その間に行われていたスペインマスターズでライバルたちが五輪レースランクを上げるためのポイント加算に失敗。アジア選手権に臨む前の段階で、16位以内が確実になった。前回の2021年東京五輪は、日本勢3番手で届かなかった舞台。アジア選手権で話を聞くと「嬉しいけど、ホッとはしていない。ここからがスタートというか本番という気持ちが強い。(五輪出場が決まると)自分自身より周囲が変わると思うので、気をつけたい」と大きな喜びを表現することなく、勝ち得たステージに目を向けていた。

年間27大会出場、驚異的なタフネス「これが、僕の戦い方」

五輪レースランク上位者は、20大会前後を戦ったが、西本は27大会に出場した【筆者撮影】
五輪レースランク上位者は、20大会前後を戦ったが、西本は27大会に出場した【筆者撮影】

 ギリギリの勝負を覚悟し、タフに戦い続けた。五輪レースは、23年5月から24年4月末までの1年間。多くのトップ選手は、20前後の大会を戦っているが、西本は27大会を戦った。ほかに、23年10月には、五輪レースの対象外だったアジア大会の団体戦にも出場し、エース級の活躍。国内では、24年2月にS/Jリーグに出場して、チームの初優勝に貢献した。休むことなく戦い続けた西本は、S/Jリーグの際に「連戦でキツイけど、やっぱり、あの大会に出ておけば良かったと、後になって後悔はしたくない」と話したとおり、日本バドミントン協会が派遣する大会のほかに、少し格下の大会にも自費派遣で精力的に参加。最後は、地道に積み上げたポイントで逃げ切り、大舞台の出場権を手に入れた。

「これが、僕の戦い方。シード選手なら(いくつかの大会に照準を合わせて調整し、ピンポイントで結果を出すなど)もっと別の戦い方があると思います。でも、僕は、これが自分の長所を生かした戦い方。相手も焦って来る。レースには、試合だけでは見えない戦いがあります。一発勝負じゃない戦いでしかできないこと」(西本)

 五輪レースで当落線上の相手を、コート外のタフネス勝負に引きずり込む戦いは、意図したものだった。バドミントンのワールドツアーは、2、3週連続で戦う日程が一般的となり、過密化が問題視されている。トップ選手でも明らかな負傷を抱える選手が多い。その中にあって、出場する大会数を増やしても負傷で離脱することなく戦い切れた。幼少期、元競輪選手のトレーナーから身体操作を学び、負傷の少ない選手としてキャリアを歩んでいるが、その強みを長期戦で生かした。もちろん、負傷のリスクは無視できず、自費派遣の大会でも所属のジェイテクトを通じてトレーナーに帯同してもらうこともあり、ケアには十分に気を遣っていたという。

29歳で迎える初の五輪、イメージを重ねた遅咲きの先輩

努力を続け、ベテランになって花を咲かせた先輩にイメージを重ねていた【筆者撮影】
努力を続け、ベテランになって花を咲かせた先輩にイメージを重ねていた【筆者撮影】

 29歳でようやく五輪の切符をつかんだ。実業団が主流の日本バドミントン界では珍しく、新しい刺激を得るため、所属や環境を変えることも厭わず、キャリアを歩んだ。東京五輪を控えた20年に日本一の強豪であるトナミ運輸を退社。約2年はフリーで活動し、22年にジェイテクトへ加入した。大きな転機となったのは、同年9月のダイハツヨネックスジャパンオープンだ。28歳でワールドツアー初優勝を飾った。世界トップランクの選手に出場義務が課せられるスーパー750という大きな格付けの大会で、大きな自信を得た。連戦が多く、激しいフットワークが必要になる競技のため、20代前半から中盤が全盛期と見られる競技だが「僕は、これからが全盛期」と言い放った。

 一つのイメージとして描いていたのは、日本代表の先輩である佐々木翔(現・北都銀行監督)だった。佐々木は、2004年のアテネ五輪、08年の北京五輪で五輪に届かず、30歳だった12年にロンドン大会で初の五輪出場。その後、出場権を獲得した日本選手の不祥事によって繰り上がる形で16年リオデジャネイロ五輪にも出場を果たした。根気強く頑張り続けられた選手にしか歩めない道のりを示した選手だった。中央大学に入学した13年から日本代表で活動している西本は「翔さんの背中を、僕が勝手に追いかけた。翔さんみたいになりたいな、と。やり続けることは、シンプルだけど一番難しい。それを同じナショナルチームで間近に見させてもらっていた」と先駆者の功績に感謝した。

追い続けたライバルに感謝「桃田の存在は、限りなく大きい」

2019年の全日本総合選手権。優勝した桃田と決勝を戦ったのは、当時トナミ運輸に所属していた西本。桃田は、日本代表では同部屋も多い仲間であり、幼少期から戦い続けるライバルでもある
2019年の全日本総合選手権。優勝した桃田と決勝を戦ったのは、当時トナミ運輸に所属していた西本。桃田は、日本代表では同部屋も多い仲間であり、幼少期から戦い続けるライバルでもある写真:松尾/アフロスポーツ

 佐々木に通ずるものを感じていた部分もある。佐々木は、04年、08年の五輪に出場した同期の佐藤翔治(現・NTT東日本ヘッドコーチ)を追いかける存在だった。西本にも、大きな同期の存在がある。同種目を長くけん引してきた桃田賢斗(NTT東日本)だ。高卒1年目からシニアの国際大会で活躍を始めた桃田の背中を、西本は大学経由で追いかけた。社会人1年目の17年には、フランスオープンで準優勝。世界で戦える資質を示したが、桃田は18年、19年と世界選手権を連覇。日本代表の遠征で同部屋になることも多くて近しい存在だったが、成績面では遠い存在だった。それでも、国際大会1回戦の直接対決で破ったり、国内大会で激闘を繰り広げたりと小学生の頃からのライバルを追い続けた。

「桃田選手の存在は、限りなく大きい。アイツがいたから、僕も(今、世界の戦いの中に)いると思う。(12年に引退した佐藤)翔治さんがいなくなったときに(佐々木)翔さんがバドミントン界を引っ張っていった。今は桃田が(五輪代表に)いない中、自分が成長して、応援されるような選手になれたら良いと思う」(西本)

「金メダルが目標。自分が勝つべき場所にしたい」

 同期のライバルを追い続け、ついに出場切符を手に入れた夢舞台。西本は、五輪はどんな舞台かと聞かれると「昔は夢でしたけど、今は目標というか、金メダルが目標。憧れというより、本当に自分が勝つべき場所にしたい」と話した。西本は、身体能力が高い。180センチの恵まれた体躯を生かして、強打を打ち込むプレースタイルが特長だ。苦手としていたテンポの早いラリー戦の対応力を高め、世界の強豪と勝負できるようになった。

 しかし、22年のジャパンオープン以来、トップレベルの国際大会の優勝はなく、メダル獲得には課題がある。それでも、西本は「今の男子シングルスは、誰が勝ってもおかしくない。その日の調子、コンディション、会場やシャトルとの相性次第で誰にでもチャンスがあると思っている。(五輪は)一発勝負を、どうやって物にするか。最後は、ちょっといい意味で(相手には予測できない)バカになれるか。その度胸は、大事かなと思います」とトップ選手に対して引け目を感じることなく臨む姿勢を強調した。タフに戦い続ける先に、大きな獲物を見据えている。

スポーツライター

1979年生まれ。東京都出身。専修大学卒業後、スポーツ総合サイト「スポーツナビ」の編集記者を経て2008年からフリーライターとなる。サッカーを中心にバドミントン、バスケットボールなどスポーツ全般を取材。育成年代やマイナー大会の取材も多い。

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