松田浩氏がテゲバジャーロ宮崎の新監督に就任。ガンバでの新たな職を選ばなかった理由とそこに見た矜持。
12月7日、テゲバジャーロ宮崎は新監督に松田浩氏を招聘すると発表した。11月23日にガンバ大阪の監督を退任することが発表されてから約2週間。その間には、ガンバからも『J1残留』に導いた功績を評価されて新たな役職でオファーを受けていたと聞く。その短いスパンでどんな決断があり、新天地での監督就任を決意したのか。ガンバで過ごした約3ヶ月の濃密な時間に思いを寄せながら、新たなチャレンジに向かおうとしている松田氏に胸の内を尋ねた。
■「近くて一番遠いチームだった」ガンバへの愛着を深めた濃密な3ヶ月。
ガンバが苦しみながらもJ1残留を確定させた最終節・鹿島アントラーズ戦を終えて、ガンバサポーターは繰り返し、『松田オレ!』と声を張り上げた。
「J1残留なので、勝ち取ったと言っていいのか迷いますが、いずれにせよ僕が就任時の目標はJ1残留だったと踏まえても、やはりサポーターも含めてみんなで勝ち取った結果だったと思っています。ホーム最終戦となった33節・ジュビロ磐田戦で『みんなでハードワークして、最後はみんなで喜びをシェアしたい』という思いを伝えましたが、その言葉通り、選手、スタッフはもちろんのことファン・サポーターの皆さんも最後まで一緒にハードワークしてくれて、本当にありがたかったし、心強かったし、嬉しかった。J1残留という最低限のミッションをクリアできたに過ぎないですが、サポーターの皆さんのコールも…こんないい思いをさせてもらっていいのかと思いながらもすごく嬉しかったです」
サポーターにしてみれば、残り10試合でJ1残留を引き寄せるという難しいミッションの先頭に立ち、チームをまとめ上げた松田への感謝の思いもあったのだろう。松田もまた、それに手を挙げ、深く頭を下げて応えた。
「J1残留を決められた瞬間は、サポーターの皆さんもまたガンバの一員として戦ってきた自分を実感した人が多かったんじゃないかと思います。もちろん、この世界ではチームとシェアすることがいいことばかりとは限らず、悔しさだったり、歯痒さを味わうことも多々あります。今シーズンはまさにその連続だったと思いますが、皆さんにはこの先も、変わらずいろんな感情をクラブとともにシェアをするという感覚を大事にしてもらいたい。それこそがサッカーの素晴らしさであり、ファン・サポーターであることの醍醐味でもあるんじゃないかとも思います。この3ヶ月、正直、楽な試合は1つもなかったですが、このクラブに根づく特別な雰囲気と、サポーターから発せられるものすごいエネルギーを受け取りながら戦うことができました。また、クラブスローガンの『青い炎となり、熱狂を生み出し、中心となる』という言葉になぞらえれば、選手とともにガンバというファミリーの中心になって戦えた3ヶ月は僕にとってもとても幸せな時間になりました。ありがとうございました」
前体制を支えるべくクラブからの意向を受けて、松田がガンバ大阪のコーチに就任したのが今年の8月9日。だが、その直後、同じく残留を争っていた清水エスパルスにホームの地で完敗を喫したことで、クラブは監督交代という大鉈を振るい、松田は新監督に就任する。残り10試合、しかも準備期間もほぼない状況を考えれば、厳しい戦いになることは想像できたが、結果的にガンバはこの10試合を4勝3分3敗の勝ち越しで切り抜け、最終節・鹿島アントラーズ戦でJ1残留を確定させる。その濃密な日々は、松田にとって「近くて遠いクラブだと感じていたガンバ」との心の距離を縮める時間にもなった。
「神戸に家がある僕にとって、もともとガンバは近くて一番遠いチームという印象があったというか。西野(朗)さんの時代に定着した攻撃サッカーも、自分のスタイルとは遠いところにあったし、恥ずかしながら、その神戸の監督時代には『西野ガンバ』との対戦で、判定をめぐって西野さんと口論になったりもして…。今ならそんなことをして勝ちを引き寄せられることは絶対にないとわかるのに、あの時は勝利への執着がすごく幼稚な行動に出てしまった。西野さんには時を経て謝ったんですけどね(苦笑)。そういうことを含めて、もしかしたら当時を知る古くからのガンバファンの方には受け入れてもらえないんじゃないかという思いもあり、余計にガンバを遠いクラブに感じていたところもありました。でも、今回、こうして縁があって仕事をさせてもらうことになり、皆さんがどういうふうに感じられたのかはわからないですが、僕自身は少し近づけた気がしたというか。クラブの一員にさせてもらったことで改めてガンバというクラブが積み上げてきた歴史、クラブの大きさ、ファン・サポーターの熱量に驚かされた反面、その魅力を知り、愛着を持つ時間にもなった。そのことを含めて、ここで過ごす時間がすごく楽しかったです。残留争いの最中にあったと考えれば不謹慎だと受け取られてしまうかも知れませんが、毎日素晴らしい選手とサッカーができて監督冥利に尽きるというか、楽しくてしょうがないという感覚は常にありました」
■なぜ、テゲバジャーロを選んだのか。心を動かした『監督』オファー。
そんな思いがあったからこそ、監督退任が決まり、ガンバからアカデミーの発展に関わる役職で力になってほしいと打診を受けた時は、素直に魅力を感じたと話す。思えば、松田にはV・ファーレン長崎時代に約3年半にわたってアカデミーダイレクターとして育成組織の改革に尽力した経験がある。もっと遡れば、長崎以前の4年間は、日本サッカー協会(JFA)のスタッフとしてS級ライセンスの指導者養成やナショナルトレセンコーチとして若い選手の育成に携わった。
そういえば以前、ガンバアカデミー出身のFW中村仁郎について「彼が小学6年生だったとき、初めてナショナルトレセンのコーチとして仁郎のプレーを見た。当時、天才だと注目を集めていた彼とこうしてプロの世界で再会できて嬉しい」と話していたが、そうした育成年代の成長に関わることも、指導に携わるやりがいの1つに感じていたからだろう。「ガンバアカデミーは、今回のワールドカップ・カタール大会でも活躍している堂安律選手を始め、世界で活躍できる選手をたくさん輩出してきた組織。そこで仕事をすることへの魅力は感じた」と松田。だが、それ以上に心動かされたのが、テゲバジャーロ宮崎からの『監督』オファーだった。
「13年途中に栃木SCの監督を退任して以降、JFAの仕事や長崎のアカデミーダイレクターをしながらも、常に監督をやりたいという思いは持っていて。もちろんこれは、自分の中でのやれるという根拠とか、うまくいくという自信があってこその『やりたい』でもあるんですけど。そうした思いの中で、21年5月に長崎で8年ぶりに監督に就任し、更にガンバの監督をさせてもらって自分の体が動くうちは監督として自分の中にあるいろんなサッカー観を伝えていきたいと思ったというか。これまでの経験を一番ダイレクトに伝えられる仕事はやはり監督だと再認識した。それに長崎でアカデミーダイレクターの仕事をした時にも感じたんですが、育成年代の仕事は1、2年で形になるものではないですから。仮に今、62歳の僕がそれを引き受けたとして、何年かは腰を据えて仕事を全うすると想像すると、いよいよ監督業には戻ってこられないんじゃないかと。実際、JFAの仕事のあと、長崎のアカデミーダイレクターに就任した時も世間からは『ああ、もう監督はやるつもりはないんだな』と思われていたはずで、さらに年齢を重ねた今は、ここで現場を離れてしまったらより監督業が遠のいてしまうんじゃないかとも考えた。もっとも、やりたいと言ってできる仕事ではないですからね。どこからも求められなければやれないんですが、ありがたいことに、テゲバジャーロが監督として求めてくれたわけですから。必要としていただけたのなら、ぜひやらせてもらいたい、やりたいという気持ちが自分の中で強く残り、お引き受けさせてもらうことにしました」
とはいえ、『監督』のオファーならどのカテゴリー、チームでもよかったということでは決してない。テゲバジャーロ宮崎との面談をする中で、クラブのビジョン、想いやチームづくりの考え方に触れ、心を動かされたことも松田の気持ちを動かした理由だという。
「テゲバジャーロがクラブスローガンとして『真摯』という言葉を掲げていることにも気持ちが惹かれたというか。正直、昔は僕も、どんな汚い手を使っても勝てばいいと思っていたタイプだったんです (笑)。そんな心持ちだったから、さっき話した監督としてのベンチワークも誉められたものではなかったと思うんですけど(苦笑)。でも、いろんな仕事に携わる中で、それじゃあダメだと痛感したし、結果を求めるためなら何をやってもいいという心持ちでいたら、逆に結果を遠ざけてしまうと気がついた。そういうことをいろんな経験の中で、あるいはいろんな人や本との出会いの中で学んで、当たり前のことながらやっぱり、いい選手=人間力が不可欠だと。そういうと単なる『いい子を育てる』みたいなイメージで受け取られがちですけど、結局、人間力を磨けば、サッカーの競技力も上がるんですよね。『心技体』という言葉がありますが、実際にこの世界では技術と体力が多少劣っても、心の強さで上にいく選手を何人も見てきましたから。今回のワールドカップ・カタール大会の日本代表も然りで、正直、今の日本がドイツやスペインと10回対戦したら勝ち越すことは現時点では難しいだろうけど、1度切りならこういうことが起きるし、メンタルや戦術で、技術や体力をカバーできることは絶対にある。つまり、試合の内容は技術、戦術、体力が決めるけれど、結果はメンタルが導き出せることもあるのがサッカーですから。それは天皇杯でよく起きるジャイアントキリングなんかも同じだと思います。だからこそ、僕たち指導者は選手を、立派な大人にしなければいけないし、真摯に選手やサッカーに向き合って彼らの心、人間力を育てなければいけない。もっとも、僕も精神論だけで勝てるほど甘い世界だとは思っていないし、当然ながら結果を出すにはそれにふさわしい積み重ねやトレーニング、戦術も必要です。でも、それを余すことなく発揮するにはやはり気持ちが大事で、だから人間力を普段から高めないといけない。そのために『真摯』であることはすごく大事な要素だと思っていますし、そのスローガンを軸に着実にチーム力を高めてきているテゲバジャーロのクラブづくりにも共感できるな、と。僕もその一員として宮崎という場所で仕事ができるのが楽しみです。今回のガンバでのJ1残留という仕事もそうでしたが、クラブに関わるたくさんの人が喜ぶ姿がどれほど幸せに感じるものなのか再確認させてもらったので、宮崎でも地元の方たちと共にJ2昇格という目標を実現する喜びを共有できたらいいなと思っています」
■プレッシャーの募る残留争いでも色褪せなかった『監督』業の魅力。
J1残留を掴み取るために、計り知れないプレッシャーと向き合い、心が擦り切れるような毎日を戦い終えたばかりだというのに、すでに次なるキャリアに向かって、目を輝かせている松田の姿に驚かされる。そういえば、残留争いに向き合った3ヶ月について口にした「楽しくてしょうがないという感覚は常にありました」という言葉と似たようなニュアンスの言葉をJ1リーグ最終節・鹿島戦後の会見で耳にしたのも記憶に新しい。
選手のほとんどが「二度としたくない経験」「仮にプレーオフに回っていたら、あと1週間このプレッシャーに向き合えたかわからない」と話していたからこそ、なおさらだ。14年ぶりのJ1の指揮になった中で実現したJ1残留への達成感を尋ねられ、松田は「こういう表現がふさわしいのかはわかりませんが」という前提で、想いを言葉に変えた。
「まさか自分がこのような立場に今、立っていることもまだ信じられない状況で、人生何が起きるかわからないなとつくづく思います。オリジナル10であるガンバというビッグクラブをJ2に落としてはいけないという、そういうミッションを果たせて本当に幸せ者だなと思いました。この3ヶ月、苦しい時間もあったんですけど、心のどこかではずっと、ガンバのクラブハウスに通うことが毎日すごく嬉しくて仕方がないと思っていました。だからこそ、ただただ支えていた周りの方々や選手に感謝したいという気持ちです」
J1残留を決めた後だったから思いのままに言葉に変えたのかもしれないが、仮にミッションが達成できなくても、松田の心中には常にその思いがあったのではないかと推測する。なぜなら、ガンバの監督就任から3ヶ月、繰り返しその言葉に触れてきた中でも氏に一切の悲壮感は感じられず、むしろ任された大役を楽しんでいるようにすら見えたからだ。
それほどまでに、松田を惹きつけてやまない『監督』という仕事の魅力とは何なのか。
「やってきたことに対して白黒はっきりと結果が出る仕事だからですかね。自分の作ってきたチーム、サッカーがどうだったのかを、試合結果によって白黒はっきりつけられて、メディアやいろんなところで白日のもとにさらされる。そのことに伴うプレッシャーや緊張感が僕にとっては楽しさであり面白さなのかもしれません。たとえば一般職の場合…仮にいい成果が得られなかったとしても、他の方法で取り返せばいいというか。目の前の仕事がうまくいかなかったからといって、仕事を取り上げられることはほぼない。だけど監督業はそうじゃないですから。自分の全てを注いで、やり切った、いいチームを作ったつもりでも…そこには観る人のサッカーの志向も多少は影響するのかもしれないけど、いいか悪いかの評価は必ず結果で示される。もちろん、常に勝ち続けられる世界ではないからものすごいプレッシャーや悔しさを味わうこともあるけど、逆にいい結果を出せた瞬間には、選手やスタッフ、ファン・サポーターなど、ものすごいたくさんの人を巻き込んで途轍もない大きな喜びに変えることができる。それは監督業の一番の醍醐味だと思っています。それがあるから…困ったことに、いいチームを作ることへの探究心も、どんどん深まっていく訳ですよ。むしろキャリアを重ねるほど、いろんなサッカーを見て、国内外のいろんな指導者や選手の考え方に触れて、自分がどんどんブラッシュアップされていく感じすらある。現に、若い時には見えなかったものがたくさん目に見えるようにもなりましたしね。そうすると、やっぱりまだ(監督を)やりたい、もっとやれると思っちゃうんですよね。62歳のおじさんになっても(笑)」
冗談めかして年齢を口にしたが、確かに昨今は国内外でも若い指導者の台頭が目を惹く。Jリーグを見渡しても、松田の年齢は、間違いなく年長者の部類だろう。でもだからこそ、そうした世の中の流れに抗ってやろうという思いも秘めているのではないか。思ったことをそのまま質問に変えてみる。
「もちろん、抗ってやろうと思っています。だから8年ものブランクがあっても監督に復帰したいと思っていたわけで。仮に『もう俺の時代じゃないな』と感じていたら、監督として再びJリーグの舞台に立って勝負してやるとは思わなかったはずですしね。もちろん、今の時代は若くていい指導者もたくさん出てきています。僕も彼らから学ぶことはたくさんあります。でも一方で…特に日本は、いわゆるサッカーのトレンドに振り回されて、前からプレスだとなれば、闇雲にそればかりになってしまって、そこに深みを伴わせてサッカーをしているチームはまだまだ少ないし、勝つことから逆算した駆け引きがあまりにも少ない。でも、だから逆に自分もまだ戦えるな、やりあえるな、やっつけたいなと思うんですけどね。正直、僕も以前は、たとえば守備はゾーンディフェンスだけで勝負しようと思いすぎていたというか。それをやれば結果が出るし、サッカーはそもそもカウンターが一番点を獲りやすく、ブロックを崩すのが一番難しいスポーツだから理にはかなっているんですけど。ただ、相手が…それこそFCバルセロナみたいに、そのブロックを崩すための圧倒的な技術を備えた選手が揃うチームなら、引いて守るだけではやられてしまう。だからいかに攻撃をするのかも考えなければいけないし、前から圧力をかけて守りっぱなしにならないようにしなければいけない。サッカーって、結局、ずっとそういうやり合いだと思うんです。相手を上回るために、新しいサッカーの戦い方が生まれ、それがトレンドになり、でもそれをまた上回るチームが出てくる。であればこそ、僕たち指導者も常に学ばなければいけないし、サッカーをもっともっと知らなければいけない。それに応じた変化も必要ですしね。それをするために、監督として培ってきた長いキャリアというのも…見てきたサッカーの数や、勝つための策を練ってきた回数が多いのは、僕のアドバンテージだと思っているので。ただ、ものすごい熱量を必要とする仕事であることは間違いないですから。自分の中にある指導に対する熱量が衰えてきたなと感じたら退きますけど (笑)、それまではもう少し頑張りますよ。幸せなことに家族も全員、いつも私の決断を快く受け入れ、応援してくれていますから」
チームづくりの話になると一気に内なる熱量が高まっていく姿を見ながら、松田のテゲバジャーロ宮崎での新たな挑戦に期待が膨らむ。だが、おそらく松田自身は、ガンバでの仕事と同様に肩肘を張ることなく、ありのままの姿で仕事に臨むのだろう。そこに長いキャリアで培った監督としての矜持を携えて。