【九州三国志】蓮池城から諫早へ、激動の武将の歩み!龍造寺家晴、その波瀾の生涯
龍造寺鑑兼の子として誕生した家晴は、官職は兵庫頭、後に信重と名を改め、龍造寺家中で活躍いたしました。
元亀元年(1570年)、佐賀城を狙う大友宗麟との戦いに始まり、蓮池城や筑後南関を守備し、さらに天正7年には筑後平定の拠点を担ったのです。
その後、隆信の独断的な蒲池氏殲滅には距離を置きつつも、柳川城主として隆信亡き後の混乱を支えました。
しかし、豊臣秀吉による九州平定により柳川城を失い、嘆願の末に伊佐早領を与えられます。
下関での訴えが功を奏し、所領を守り抜いた家晴は、地名を「諫早」と改め、新たな基盤を築きました。
慶長5年の関ヶ原では鍋島勝茂に従い、戦局を生き抜きます。
晩年、幕府の調停に従い、鍋島氏への権力移譲を容認する立場を取った後、慶長18年に諫早でその生涯を閉じました。
家督を継いだ直孝の代から「諫早」の名を冠し、龍造寺家の名跡を存続させました。
さらに長男・清直の系譜は長州藩に仕えることで新たな歴史を紡いだのです。
家晴の生涯は、戦乱の時代を駆け抜けた武将の鮮烈な一幕でございました。