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昭和の偉人・宮沢賢治がやらかして水浸しに――。大沢温泉に残る古き良き湯治風景【昭和100年】

山崎まゆみ観光ジャーナリスト/跡見学園女子大学兼任講師(観光温泉学)
宮沢賢治ゆかりの大沢温泉「湯治屋」にはいまも自炊できる(撮影・筆者)

花巻で生まれ育った宮沢賢治は、幼少の頃から花巻温泉郷の志戸平温泉や西鉛温泉(現 在は閉鎖)へ出かけていた。膝がかぶれたといっては志戸平温泉へ、妹トシの療養に西鉛温泉へ。 賢治の母方の親戚が志戸平と西鉛で湯治宿の経営に携わっていたこともあり、賢治にと って、温泉はごく身近なものだったのだろう。

また賢治の父は社会福祉活動や仏教の普及に力を注いでいた。毎年夏に子どもたちをめて仏教講習会を開催していた が、その会場が大沢温泉だった。 講習会に参加した賢治の写真は いまも残っている。

賢治が十四歳の時、友人に宛てた手紙には賢治の気性を示す 珍エピソードが綴られている。

「僕は先頃一週間ばかり大沢に 行った。大事件は時に起こったね。 どうも僕はいたずらしすぎて困るんだ」

当時、大沢温泉は川の上流に 設置した水車を動力としたポンプで、源泉からお湯をくみ上げて、湯坪(湯壺)に落としてい た。川は水車と湯坪の二手に分かれていた。お湯が熱い時には川の水を湯坪に入れられるようになっており、普段は止め られている。長く使われていなかったのか、湯坪への水路には蛙の死骸や蛇の抜け殻などがあった。

賢治の手紙によれば、 「乃公(自分のこと)考えたね。そこでそのとめを取った。ところがまた本のようになら ない。水はみんな湯坪にいった。水車は留った」

水は勢いよく湯坪に流れ、お湯は溢れ、湯坪ならぬ、水坪になってしまったという顛末 だ。

この時の情景描写も手紙に綴っている。

「後に湯坪に行って見ると蛇のむけがら蛙の死がい。泥水。石ころ。下駄片方。いやさん たんたる様だぁね」

なんと賢治がいたずらを仕出かした日は、たまたま巡査が混浴風呂の風紀の指導をして いたというから、騒ぎはさらに大きくなった。

そうした賢治の若き日の無鉄砲を思い起こしながら、「大沢の湯」に浸かるのもこれま た一興である。

賢治は盛岡高等農林学校在籍時、趣味は石の収集で、「石ころ賢さん」と愛称がつくほ どだった。地質学の研究にも熱が入り、同校の教授から、助教授になるよう推薦も受けが、断り、一度は花巻に戻る。 しかし宗教家の父といさかいがあり、一度は東京に出てくるが、最愛の妹が病床に臥したという知らせで、再び花巻に帰る。 賢治は花巻農学校の教壇に立ち、生徒を連れて度々大沢温泉を訪れた。

※この記事は2024年6月5日発売された自著『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』から抜粋し転載しています。

観光ジャーナリスト/跡見学園女子大学兼任講師(観光温泉学)

新潟県長岡市生まれ。世界33か国の温泉を訪ね、日本の温泉文化の魅力を国内外に伝えている。NHKラジオ深夜便(毎月第4水曜)に出演中。国や地方自治体の観光政策会議に多数参画。VISIT JAPAN大使(観光庁任命)としてインバウンドを推進。「高齢者や身体の不自由な人にこそ温泉」を提唱しバリアフリー温泉を積極的に取材・紹介。『行ってみようよ!親孝行温泉』(昭文社)『女将は見た 温泉旅館の表と裏』(文春文庫)『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』(潮出版社)温泉にまつわる「食」エッセイ『温泉ごはん 旅はおいしい!』の続刊『ひとり温泉 おいしいごはん』(河出文庫)が2024年9月に発売

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