ノーベル化学賞「リケジョ」コンビ初の快挙 女の子もシンデレラより科学にときめく時代はやって来るのか
自然科学3賞を受賞した女性は3.5%
[ロンドン発]今年のノーベル化学賞にゲノム(全遺伝情報)編集技術を開発した独マックス・プランク感染生物学研究所のエマニュエル・シャルパンティエ所長(51)=フランス出身=と米カリフォルニア大バークリー校のジェニファー・ダウドナ教授(56)の女性2人が輝きました。
自然科学3賞で女性の単独受賞は過去にもあります。しかし、英BBC放送は「賞が女性2人に共同授与されるのは初めて。歴史的なノーベル化学賞だ」と報じ、シャルパンティエ所長の「これが科学の道を志す若い女の子に前向きなメッセージを与え、女性科学者も研究に影響を及ぼせることを示すことを願っています」という言葉を伝えました。
シャルパンティエ所長は「これは女性だけに限ったことではありませんが、科学の道を志すことへの関心が明らかに欠けていることは明白です。これは非常に心配なことです」という懸念を伝えました。
1901年から2020年の間に生理学・医学賞、物理学賞、化学賞の自然科学3賞で337の賞が624人に授与され、このうち女性は22人(全体の3.5%)、23の賞が授けられました。2回受賞したのは1903年物理学賞と1911年化学賞のマリ・キュリー夫人(1867~1934年)です。
今年はブラックホールの研究で物理学賞の共同受賞者3人の中に米カリフォルニア大ロサンゼルス校のアンドレア・ゲズ教授(55)も含まれていました。ノーベル賞にも男女共同のムーブメントが出てきているのでしょうか。
【これまでの女性受賞者】
生理学・医学賞12賞
化学賞7賞
物理学賞4賞
DNA構造解明の影に隠された女性研究者
ノーベル自然科学3賞の受賞を巡ってはこんな話があります。1962年に生理学・医学賞を共同受賞したジェームズ・ワトソン氏(92)は回想録『二重らせん』の中で、DNAの構造を解明する競争で繰り広げられた人間ドラマを赤裸々に描きました。
この中で暗愚な研究者として描かれたイギリス生まれのユダヤ人女性ロザリンド・フランクリン(1920~58年)。彼女が撮影したDNAのX線写真をワトソン氏らが見ていなかったら、DNAの二重らせん構造は他の研究者によって先に発見されていたかもしれません。
「私は唖然として胸が早鐘のように高鳴るのを覚えた。写真のなかでいちばん印象的な黒い十字の反射はらせん構造からしか生じえないものだった」とワトソン氏は打ち明けています。
その年、生理学・医学賞を共同受賞したのはワトソン氏のほかフランシス・クリック、モーリス・ウィルキンス(いずれも故人)。
ワトソン氏とクリックの英ケンブリッジ大学、ウィルキンス、フランクリンのキングス・カレッジはDNAの構造解明で競い合うライバルで、激しい火花を散らしていました。しかしワトソン氏もウィルキンスもフランクリンのプライドにうんざりしていたのです。
ウィルキンスはワトソン氏にこっそりフランクリンが撮影したDNAのX線写真を見せます。クリックも別のルートでフランクリンのX線写真を見ます。しかし当のフランクリンは自分の未発表の研究データがワトソン氏やクリックに見られていたとも知らずに1958年に他界します。
日本の女性研究者の割合は16.2%
国連教育科学文化機関(ユネスコ)によると女性研究者の割合(最新データ)は29.3%。国別ではミャンマー75.6%、ベネズエラ61.4%と高く、イギリスは38.7%、イタリア35.2%、ドイツ28%。アジアは中国(マカオ)39.1%、シンガポール30.1%、韓国20.1%、日本はわずか16.2%です。
下の地図では女性研究者の割合が多いほど色が濃くなっています。
女の子がシンデレラストーリーやプリンセス、マーメイド物語に胸をときめかせるのは世界共通です。しかし日本では、男性は「外で仕事」、女性は「家で家事と子育て」という文化が根強く残り、中等教育からすでに「STEM」を避ける傾向が見られるそうです。
「STEM」とはScience(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)の頭文字です。長時間労働の過酷な慣習も女性の進出を阻む大きな壁になっています。
「“女性”を“マイノリティーの人々”に変えたい」
英インペリアル・カレッジ・ロンドン理学部物理学科素粒子研究グループで研究を続ける内田桐日(きりか)博士研究員にお話をうかがいました。
「私は日本とアメリカで学生時代を過ごし、アメリカ、日本、ドイツ、イギリスでポスドクを10年以上続けています。ポスドクを10年以上続けるなんて日本ではほぼありません。欧州ではよくあることでしたが、特にリーマン・ショック以降そういうこともなくなりつつあります」
「そういう意味で私はちょっと特殊かもしれません。私の研究分野は高エネルギー実験物理学です。イギリスに来る前、ドイツにいたころはアカデミックを目指していて、特に日本に帰りたくて頑張っていたのですが、なかなか雇ってもらえないので、一度研究職をあきらめて2013年に日本に帰って1カ月ほど何もしていなかった時期があります」
「12年7月に素粒子物理学の世界的な研究拠点CERN(欧州合同原子核研究機構)でヒッグス粒子が見つかったと発表され、それまで博士論文を書くのを待っていた学生が何百人もいたこともあり、ポスドクのポストを得るのはとても大変なことでした」
「インペリアルに応募したのはたぶん13年2月ぐらいだったと思うのですが、返事が来たのが7月。私は6月末にドイツから日本に戻ってきていました。とても応募が多かったのでスカイプ面接で3人に絞ってから実際に対面面接をしたいということでした」
「実はドイツにいた時も今もCERNの実験をやっているのですが、ドイツにいた時はCERNのATLAS、今はCMSで別の実験をしています。どちらの検出器も、同じ加速器上にあり、同じ目的をもって、違うデザインで、それぞれ異なった解析をして競争をしているという関係です」
「私はドイツにいた時、CMSにほとんど知り合いはおらず、インペリアルの人も1人も知らなかったので採用された時はとても驚いたし、不安でもありました。一度は研究を辞めようと思っていたので辛かったら日本に帰ろうという感じで、気楽な気持ちでロンドンにやって来ました」
「当時は日本に限らずどこでも知らない人を雇うような時ではなかったので採用されると期待はしていなかったのですが、公募内容は私にとても合っていたし、魅力的でもありました」
「私がいろいろな大学や研究機関を経験してきたということをポジティブに評価してくれて、経験的にもこのポストにあった人物だと判断してくれたので、働き始めてとても居心地がよく、3年の契約期間が過ぎても延長してもらえ、もう7年になります」
「そんな経緯から女性として思うことは、やはり自分が目指す人が活躍するというのはその分野に足を踏み入れる大きなモチベーションだと思います。私は特に目指す人がいたわけではありません。私がはっきり物理をやりたいと思ったのは大学の図書館で本を読んで感動した時です」
「しかし大学院に進む上でなぜ女性がいないのかは疑問に思いましたし不安でもありました。自分が生きていける場所なのだろうか、高エネルギーの分野に女性はいるのですかと教授に質問したこともあります。私は京都大学の高エネルギー研究室に入った2番目の女性だそうです」
「女性がいないことはないですが、今でも日本の高エネルギーはとても女性の少ない分野です。アメリカに移っても女性が少ないことはあまり変わらなかったのですが、特に存在を否定されることもなく、不都合を感じることもなく過ごしていました」
「ただドイツに移ったら、とてもたくさんの女性の学生とスタッフがいて初めて女性がそばにいることがとても楽でありがたいということに気づきました。男性には気軽に頼めないことなど、研究以外のことでやはり助かります」
「しかし、そんなドイツでも女性の教授はほぼいませんでした。ロンドンでは、ドイツほど女性はいませんが、技術スタッフに女性が多く、お世話になっています。CERNには世界の研究機関から人が集まりますが、やはり女性は少ないです」
「今の機構長はファビオラ・ジャノッティというイタリア人の女性です。CERN初の女性機構長です。実際イタリア人の女性研究者は多いようです。私はイタリアの大学のことはよく知りませんが、話によるとイタリアでは大学の給料が低いので男性に人気がないそうです。実際友達の話によると給料は低いそうです」
「いろいろ研究の現場を経験してきましたが、ジェンダーギャップを埋めるのはそう単純なことではなさそうだし、時間がかかるような気がします」
「しかし女性がノーベル賞をとることは、より多くの女性がその分野に足を踏み入れるきっかけになる、より将来への選択肢が広がる、素敵なことだと思います」
「私はもっと一般的に“女性”を“マイノリティーの人々”に変えたいと思います。職を探している時にも、特にアメリカの大学や研究機関では、女性に限らず、有色人種、様々なマイノリティーの人々を優先するという公募が多かったからです」
「自分に限界をひいてはいけない。“The sky is the limit”」
昨年1月、アモルファス(非結晶物質)研究の第一人者で、女性で初めて日本物理学会会長を務めるなど日本の女性科学者の草分け的存在だった米沢富美子さんが亡くなられました。女性研究者を顕彰するため「米沢富美子記念賞」が設立され、今年2月に5人が選出されています。
長女の米沢ルミ子さんはこう話します。「日本物理学会は早くから女性の活躍を支えてきた数少ない科学関連の学会です。21世紀に入ってからは会長に女性が就任した学会は随分増えてきたようですが、1990年代に母を会長に迎えた物理学会は先駆的だったのではないかと思います」
「母の生前にすでに日本物理学会・女性科学者賞の設立を内定しており、賞に母の名前を採用してはどうかということで本人の了解を得ようとした矢先に母が脳梗塞の後遺症で急逝してしまうという残念なことになってしまいました」
「母はいつも『自分に限界をひいてはいけない。“The sky is the limit”』というのが口癖でした。結婚当初、父に言われた『できないことはないだろう』という言葉で目が覚めたと言っていました」
「『女性は男性に比べると様々な障壁に立ち向かわなければいけないけれど、自分で自分に限界をひいてしまってはおしまい。チャレンジをエネルギーに変えればいいのだ』と母は常々、話していました」
(おわり)