ミニスカートはジェンダーを解放した 野際陽子の自由と孤独【野際陽子物語】
近年のファッション業界では、性別の枠にとらわれない「ジェンダーレス」や、自然環境や社会に配慮した「サステナブル」がトレンドになっている。ファッションは単なる衣服にとどまらず、その背後には時代の思想がある。大仰にいえば、服を選んで着る行為は、自らの世界観の表明なのだ。
1960年代、20世紀最大のファッション革命と呼ばれるミニスカートが登場した。野際陽子は、そのミニスカートを日本人で初めてはいた女性である。彼女はどのようにしてミニスカートに出会ったのだろうか。
パリのエトランゼ
1966年2月、野際は一人パリに降り立った。白い石造りの建物が立ち並び、セーヌ河が街の中心をゆったりと流れている。噴水のそばでは、若い学生たちが語りあっていた。野際は先月30歳になったばかりで、女優業もテレビのレギュラー番組も中断し、留学生としてパリにやって来たのだ。
20代の彼女はパリでの一人暮らしをずっと夢見てきた。『勝手にしやがれ』や『地下鉄のザジ』などのヌーベルバーグ映画を観ては、セーヌ河の畔を一人で歩く姿を思い描いていた。アナウンサー時代には、NHKの専属女優だった黒柳徹子と一緒にフランス語を勉強している。1960年代のパリには、文化も思想も芸術もすべてが詰まっているような気がした。できるなら旅行者としてではなく、その街をエトランゼ(異邦人)として生きてみたかった。
海外旅行が自由化されたのは2年前、今のように誰もが気軽に海外へ行ける時代ではない。野際はNHKを退社後、4年かけて執念で200万円を貯金し、羽田空港から日本を飛び立った。大卒公務員の初任給がようやく2万円を超え、新発売のトヨタ「カローラ」が49万円の時代である。彼女を空港まで見送りに行った弟の野際靖雄は、次のように語る。
そのときは陽子がものすごく遠いところに行く気がして、ちょっと悲しくなりましたね。今から考えると、自分だけの力で夢を切り拓いていったのは偉かったなと感じます。
野際は、着いた日だけは贅沢しようとグランドホテルに泊まった。その年のパリは2月なのになんだか暖かい。念願のパリでの一人暮らしがはじまったが、広いホテルでご飯を食べるのは少し寂しかった。
最初に、外国人向けのフランス語学校「アリアンス・フランセーズ」に入学した。クラスに日本人は彼女一人しかいない。さまざまな国から来た留学生と机を並べ、フランス語を勉強した。熱心に勉強したおかげで大学入試に無事合格し、9月からはカルチェラタンにあるソルボンヌ大学に通う。さすがに授業は難しく、『トリスタンとイゾルデ』を古語で読む授業では、先生から指されないように小さくなっていた。
アパートは、パリ南西部に位置するブローニュ・ビヤンクールに広めのワンルームを借りた。家賃は四万二千円、とても一人では払えないので、ほかの留学生とルームシェアしている。食事は、日本から持参した鍋で米を炊き、野菜を醤油に漬けて漬物を作る。アパートの窓からセーヌ河を眺めながら、野際はエトランゼの孤独と不安を味わっていた。
女性解放の象徴
野際は、1966年の夏頃からパリジェンヌのスカートが短くなったと証言している。ミニスカートは、イギリスのデザイナーのマリー・クアントが商品化し、フランスのデザイナーのアンドレ・クレージュがパリコレで発表して世界中に広まった。クレージュがミニスカートを取り入れた新作を発表したのは1965年、野際は新たなモードが誕生する最中に立ち会っていたのである。
ミニスカートはもともと、1950年代末からロンドンの少女たちが身につけていたスタイルだった。その頃のロンドンは「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれ、映画や音楽、ファッションを中心に若者文化が花開いていた。若者たちは旧世代の既成概念を打破しようとし、少女たちは女性を束縛する男社会に反抗した。ミニスカートはその象徴である。
現在では、ミニスカートが「女らしさ」の記号として定着しているため、歴史的な意義が見えにくい。当時のミニスカートは身体を締めつけず、働く女性にとって動きやすい服装だった。また、性的アピールの手段ではなく、既成の「女らしさ」を逸脱するイメージをもっていた。社会学者の成実弘至は次のように論じている。
ミニスカートは、心身ともに女性を解放してくれるものだった。野際は、日本から持ってきたスカートを自分で裾上げし、着るようになった。つねに心は自由でありたいと考える彼女は、ミニスカートとともにその思想も身にまとったのだろう。
日本も外国も同じ
大学に入学してから半年後、貯金が底をついたため、野際は日本に帰国する。彼女はパリで暮らした1年間を次のように振り返った。
1967年3月、野際はあざやかな若草色のミニワンピとコートを着て、羽田空港に現れた。迎えにきた友人たちは、控えめだった彼女の変身ぶりに驚いたという。弟の靖雄は、「むこうで生活して自信がついたんじゃないですかね。私からは陽子が元気ハツラツに見えました」と語る。
その後、ミニスカートは野際のトレードマークになり、雑誌でもさまざまなミニスカート姿を披露した。また、TBSドラマ『愛妻くん』に出演し、アメリカから帰国する夫をミニスカートで出迎える妻を演じた。そのドラマは、夫がノイローゼになったため、妻が和服を着るようになるというストーリーで、日本社会がミニスカートをどう見ていたかがよく分かる。野際が東京を歩いていると、見知らぬ男から「短けえなあ」と悪態をつかれた。だが、いずれ必ず流行すると思えば怖くはなかった。
同年10月、イギリスからモデルのツイッギーが来日し、日本でもミニスカートがブームになった。当時はまだ家庭に洋裁文化が残っており、誰もが手持ちのスカートを仕立て直して簡単につくれる。それだけで世界の流行の最先端に追いつけるので、若い女性にかぎらず、幅広い世代の女性がミニスカートをはいた。野際はファッションにおいても生き方においても、女性たちの先頭を歩いていた。
そんな彼女にハマリ役のオファーが舞い込んだ。ドラマのタイトルは『キイハンター』、演じる役は語学に堪能な元フランス情報局の諜報部員だった。
(文中敬称略)
〈参考文献〉
・野際陽子『脱いでみようか』扶桑社、1996年
・井上雅人『ファッションの哲学』ミネルヴァ書房、2019年
・成実弘至『20世紀ファッション――時代をつくった10人』河出文庫、2021年
【この記事は北日本新聞社の協力を得て取材・執筆しました。同社発行のフリーマガジン『まんまる』に掲載した連載記事を加筆・編集しています。】