黒柳徹子が初めて語る 親友・野際陽子との「幻のふたり舞台」【野際陽子物語】
2017年に野際陽子が逝去した際、黒柳徹子は野際への手紙というかたちで、自らの思いを発表した。その手紙の最後は、次のように綴られている。
黒柳と野際は60年にわたり、浮き沈みの激しいテレビの世界で友情を保ち続けた。黒柳にとって野際はどんな存在だったのか。知られざる友情物語を黒柳に直接語ってもらった。
NHKで出会った二人
この日の東京は、冬の澄み切った空が広がっていた。頭上ではヘリコプターが爆音を響かせながらビラを散布する。都内の目抜き通りを宣伝カーが西へ東へと走り回る。車の屋根には大きな文字で「いよいよテレビ時代来る!」と書かれていた。1953年2月1日、NHKは午後2時から開局記念式典を開き、テレビ本放送をスタートさせた。
同月、一人の少女がNHK東京放送劇団の試験に合格した。試験の点数は悪かったが、テレビという新しい分野には「無色透明」な子も必要だという理由から採用された。黒柳徹子である。それから5年後、立教大学を卒業した才女が、倍率数百倍の狭き門を突破し、アナウンサーとしてNHKに入局した。野際陽子である。同年代の二人が、黎明期のテレビの世界に飛び込み、出会った。
当時、NHKの放送会館は内幸町にあり、劇団の部屋とアナウンス室が同じフロアだった。黒柳が部屋で本を読んでいると、ツカツカと廊下を歩く野際の姿を目にした。いつしか、二人は毎日のように声を交わすようになった。黒柳の記憶の中で野際の若かりし姿は鮮やかだ。
すぐに意気投合して、お友達になりました。女同士でこれほど仲良くなれることって、あんまりないんじゃないかしら。もちろん喧嘩したこともないし。親友ですよね。テレビが始まってからずっと、私は野際さんと一緒に戦ってきたような気がします。
気が合った二人は、プライベートもともに過ごした。まだ既製服が一般化していない時代で、黒柳は六本木にある洋服屋で服をオーダーしていた。その店は、防衛庁(現・東京ミッドタウン)の向かい側にあった。野際もそこで作りたいというので、黒柳は彼女を連れて、しょっちゅうその店へ出掛けた。
ときには一緒にフランス語を勉強したこともある。NHKでは、国際局にいたフランス人を先生にして、フランス語教室が開かれていた。黒柳は「あなたも習いましょうよ」と野際を誘い、ともに机を並べた。その頃から、野際は「いつかフランスに行きたい」と言っていたという。
黒柳は25歳で『紅白歌合戦』の紅組司会を務め、ドラマやバラエティで活躍していった。一方、野際はアナウンサーとして4年間勤務した後、NHKを退局し、しばらくして女優デビューを果たす。野際が女優になりたいという話は、黒柳も聞いたことがなかった。「ある日突然、野際さんからやめるつもりだと聞きました」
女優としての活動を続けるなか、二人はそれぞれ仕事を中断して、海外へ留学している。野際はパリへ、黒柳はニューヨークへ。すれ違うように旅立った。そこで彼女たちのトレードマークも誕生した。野際はミニスカートをはいて帰国し、黒柳は和服にも洋服にも似合う髪型として「タマネギヘア」を考案する。忙しくて互いの報告はあまりできなかったが、離れた場所で、二人はファッションも生き方も最先端を歩んでいた。
再会は『徹子の部屋』で
帰国後、野際は『キイハンター』に出演し、千葉真一との結婚・出産を経験した。一方、黒柳は『13時ショー』でワイドショー番組として初の女性メイン司会を務め、1976年からは『徹子の部屋』がスタートする。野際は何度もゲスト出演し、番組が多忙な二人の再会の場所となった。
『徹子の部屋』があってとってもよかったと思います。野際さんと会えるし、二人で話もできるし。収録が終わってからイタリアンを食べに行ったりもしました。野際さんとはいつ会っても、昨日まで会ってたような気がして、すぐ話が続くって感じ。野際さんから「墓場までもっていこうと思う話があるんだけど、あなたに話しちゃおうと思うの」って言われたこともありました。
会えないときは、FAXでやり取りした時期もある。FAXが誤送信されると困るので、伝通院のそばに住んでいた野際には「伝通院様へ」、乃木坂に住んでいた黒柳には「乃木坂様へ」と書いて送りあった。「私は大きくてカクカクした字を書くんだけど、野際さんは流れるようにきれいな字でしたね」
野際は女優として、ずっと順風満帆だったわけではない。40代から50代にかけては、思うように役がつかなかった時期もある。黒柳は親友として、そんな野際も見てきた。
女優を続けてるんだけど、あんまりはっきりしなかった。女優という職業としても、収入の面からいってもね。だから、野際さんも考えていたんでしょうね。このまま女優を続けていいものか、自分の身をどういう風に置けばいいのかって。相談されたわけじゃないですけど、野際さんはそういうことを相談する人じゃないのね、きっと。
野際は56歳のとき、冬彦の母を演じて再ブレイクする。黒柳はその姿を見て、心から喜んだ。
よかったなあと思いました。野際さん、これでずっとやっていけるわって思ったから。姑といえば、昔はもっと古いタイプが多かったんだけど、野際さんのようなインテリのお母さんは少なかった。それから野際さんにどんどん仕事があって、本当にうれしかったです。
二人の共演は『徹子の部屋』が多かったが、一緒に芝居をやりましょうよとも話し合った。黒柳は、杉村春子とミヤコ蝶々が「本妻」と「二号さん」を演じた芝居を二人でやると面白いと思っていた。一方、野際が提案したのは、二人がコンビを組むスパイものだった。
野際さんが「私がやせてる人で、あなたがすごく太ってる人、それでコンビになるのはどう?」って言うから、「そんな太ってる役なんかやだ」って言ったの。私が「あなた、自分だけいい役やろうとするのはよくないわよ」と言って、すごいおかしかったの。でも、野際さんはしきりに言ってたから、本当にやりたいと思ってたんじゃない。
野際は犬好きで、家で何匹もの犬を飼っていた。ある日、黒柳が家に遊びに行くと、着ていたアルマーニのオーバーに子犬がおしっこをひっかけてしまう。野際はそれを見て、犬に「アルマーニ」と名付けた。しばらくして、その犬は他家に引き取られたが、黒柳はときどき、「アルマーニ、元気らしいわよ」と野際から教えてもらった。
「私たちはすごく仲良かったけど、お互いの恋人の話とかはあまりしなかったわね。野際さんが結婚してからも、家のなかのことは聞きませんでした。でも、お嬢さんが女優になったので、その心配はしていました」。黒柳は野際と一緒に、娘の樹里の芝居を見に行っている。そこは池袋にある小さな劇場だった。終演後に「よかったんじゃない」と言うと、野際は「うまくいってくれるといいのよねえ」と母の顔を見せた。
どこか老成している人
あるとき、黒柳は野際の具合が悪いと耳にする。たまたまトイレでばったり会ったときに「あなた、どこか悪いの?」と聞くと、野際は「うん、ちょっと肺がね」と返した。その後、『やすらぎの郷』で元気に芝居をしている姿を見て、大丈夫なんだと思っていた。だから、訃報はある日突然、訪れた。
ものすごく驚きました。そんなはずじゃなかったのにと思って、信じられなかった。どうしてそんなに早く死んじゃうの、まだいろんな話があったのに。とっても悲しかったです。
野際は5ヶ月前に『徹子の部屋』に出演していた。だが、そのときは個人的な話があまりできなかった。黒柳は、また会ったときに話せばいいやと思っていた。結局、二人が言葉を交わしたのは、それが最後だった。
黒柳は、野際の人生を次のように振り返る。
結婚したり、子供が生まれたり、そういう意味では幸せだったのかなって。だけど、やっぱりどこか老成している人だったと思います。私なんかとちがって、大人っぽいっていうかね。
来年で日本のテレビは70周年を迎える。テレビの世界におけるジェンダー平等の実現は、ようやく取り組みが始まったばかりだ。黒柳と野際は、今よりもはるかに男社会の中で、女性が活躍する道を切り拓き、自立した女性として生きてきた。だが、自立とは孤独ではない。彼女たちはそこで出会った女性たちとの絆を大切にしてきた。黒柳は「話の合うお友達のいることが、世の中で一番大事なことじゃないですかね」と語る。二人はたまにしか会えなくても、互いの存在が心の支えだったのだろう。黒柳は取材の最後に、万感の思いを込めて「とってもいい人でした」と呟いた。
結局、野際が「墓場までもっていく話」は、聞かないまま終わった。黒柳に一つ悔いが残った。
(文中敬称略)
【この記事は北日本新聞社の協力を得て取材・執筆しました。同社発行のフリーマガジン『まんまる』に掲載した連載記事を加筆・編集しています。】