松井大輔「僕たちは島国だから…」ベトナム移籍会見で語った海外でプレーする意義
サイゴンFCから11月にいきなり届いた電撃オファー
「クラブ(横浜FC)にベトナム3位のサイゴンFCが僕に興味を持ってくれてると2~3週間くらい前に聞いて、トントン拍子に決まりました。オーナーもこれからのビジョンを明確に僕に伝えてくれたので、行くことを決断しました」
39歳にして5カ国・9クラブ目の海外挑戦に踏み出すことになった元日本代表・松井大輔(横浜FC)が4日、オンライン記者会見にのぞんだ。
23歳で当時フランス2部のルマンに赴いてから、自身も数々の移籍を経験し、瞬く間に他クラブに引き抜かれて去っていく人間を日常的に見てきた彼には「移籍会見なんてしなくていいんじゃないか」という外国人的感覚もあったようだ。が、やはり3年間過ごしてきた横浜FCへの恩義と感謝は強い。それをしっかりと言葉で伝えるべきだと考え、メディアの前に現れた。
今季は下平隆宏監督による若手の積極起用や自身のケガもあって3試合出場と苦境にあえいだが、新たな身の振り方が決まった今は晴れ晴れとした表情を見せていた。
再びピッチでコンスタントに戦う自分を取り戻す!
「サッカー選手として試合に出場するというのは必要不可欠。ピッチで何も表現できない状況というのは悔しさがにじみ出てくるもの。今年はコロナもあって、何回もケガをしたんで、チームに貢献できなくて申し訳ない気持ちもあります。でもこうやってまた海外からオファーをもらって、プレーヤーとして必要とされたことがすごく嬉しい。まさか海外にもう1回行けるとは僕自身も考えてなかった。だからこそ、向こうに行ってガッカリさせたくないですね。
サイゴンFCもグランドや設備を何十億円かで今年買ったと聞きましたし、アジアで戦っていけるクラブにしたいと。そのために日本人を何人か入れたりして、しっかりクラブの経営もしていきたいということだったので、その手助けができれば。ベトナムサッカーだったり、違うところでも日本とベトナムの懸け橋になれればいいかなと思います」と彼は少年のように目を輝かせていた。
3年前のポーランドで苦しんだ言葉の壁
足掛け10年間にわたってフランス、ロシア、ブルガリア、ポーランドで戦い続けてきた百戦錬磨の男も、2017年8月から半年間プレーしたポーランド2部のオドラオポーレでは想像以上の苦労を味わった。最大の要因が言葉の問題だった。過去7クラブにはフランス語か英語を話せる監督か選手がいて、意思疎通に困ることはなかったが、ポーランド2部は外国人枠が1人。それ以外は全員が現地の選手で意思疎通は全てポーランド語だ。
「こんなに言葉が通じないのは初めて。前後左右みたいな単語だけは辛うじて覚えたけど、それだけじゃ足りないこともある。『食事に行こう』と誘われてもグーグル音声翻訳を頼りに会話するだけ。こんなに大変だとは思いませんでした」と当時、彼はしみじみと打ち明けてくれた。
ベトナムではフランス語と英語で勝負!
そういう観点で今回の新天地・サイゴンFCを考えてみると、意思疎通の軸はベトナム語になるだろうが、旧宗主国であるフランス語を話せるクラブ幹部やスタッフがいる可能性が高い。選手たちも片言の英語くらいは学んでいるだろうし、ホーチミンの街には日本人駐在員も数多くいるからサポートは期待できると言っていい。
「1月16日に来シーズンのリーグ戦が開幕するんで、11日に出発しますけど、2週間隔離の間にはしっかり先生を付けて英語とフランス語の勉強をズームで毎日できたらいいと思います。日本企業も入っているみたいで、昨日インスタグラムを見ていたら『すき家』もあるみたいなんで、日本食もすぐ食べられるんだろうなと。便利な時代になったので、そんなに困らないと思います」と本人もオドラオポーレ時代の反省を踏まえながら、新たな異国で自らの地位を築いていくつもりだ。
トップ下で「新たな松井大輔像」を確立へ
横浜FCでは目下、ボランチが主戦場。一時はリベロにも入ったことがあった。だが、松井自身は「アタッカーとして勝負したい」という思いが今も強いという。「トップ下があればそこでやりたい。もう1回前の方でできれば楽しそうだなと思っています」と彼は語気を強めている。
とはいえ、2010年南アフリカワールドカップの頃のような激しいアップダウンやピッチを縦横無尽に駆け回るようなプレーは年齢を考えると難しい。前目にいながら、周りをうまく使って「味方を生かしつつ、持ち前の創造性やテクニックを駆使して自分も輝く」といった体制を構築できれば理想的ではないか。近年の彼は多彩なポジションを経験して視野が広がったし、JFA公認B級指導者ライセンスを取得して指導者目線でサッカーを見ることができるようになった。それも「新たな松井大輔像の確立」に役立つだろう。
「この年齢で選手を続けていくうえで、すごく重要なのが、試合に出続けること。試合に出ていないと筋肉も固くなって、すごく難しくなる。向こうでコンスタントに出ながら、1年間通して体を作っていきたいし、自分らしいプレーを思い起こしたいと思ってます。
ベトナムでいろんな監督と出会ったり、いろんなサッカーを見ることが自分のプラスになるとも考えています。僕は将来的にどっちにしろサッカーに関わっていくわけで、いずれ子供たちを教えたり、選手を教えたりっていうのができるように、今のうちから多くを学びたいと思います。新しいものに触れられれば、違う目線、違った角度から物事を見れるようにもなる。全てが勉強なんで、ベトナムで得られるものがあるといいですね」
目指せ、カズの領域!
こうして先々のビジョンまで見据える松井だが、まだまだユニフォームを脱ぐつもりは一切ない。ともに南アで戦った内田篤人(JFAロールモデルコーチ)や中村憲剛(川崎)は一足先に現役引退を決断したが、彼は尊敬する53歳のカズ(三浦知良)を見習って体の動く限り、走り続けたいという。
「今は(先々のことは)何も考えてないんですけど、カズさんとかいろんな上の方々から助言をいただいて『やれるんだったらやった方がいい』と言われた。『プレーできる体と精神力があるのであれば、ずっと続けていくべきだ』という言葉は自分の中に刻まれています。
この3年間、カズさんとはロッカールームも近くて、毎日家に帰るまでずっと一緒にいましたけど、一緒にサッカーできたのは本当に大きな経験でした。日々のトレーニングからアイシングの仕方、体のケアの仕方をしっかり学べたのもよかった。カズさんはあの年齢でずっとケガをしていない。今年みたいにケガ人が多くて、試合も過密日程なのに、若手と同じくらいやれているのはホントにすごいこと。『体が違うのかな』と最近は思うようになってきましたね」
島国根性を捨て、先へ先へと突き進む!
こう笑う松井だが、カズの領域に至るまでにはまだまだ時間がある。鹿児島実業高校時代の2つ上の先輩・遠藤保仁(磐田)も環境を変えて輝きを取り戻した。40代になってサッカー選手が生き残っていくのは本当に大変なことだが、自分がイキイキと過ごせる場を自ら作り上げることができれば、持てる才能を生かせるはずだ。
「僕たちは島国だし、違うところに行って違うものを見ることが僕は大事だと思っていて、いろんなものを体験しないと何も分からない。行った者しかそこでの経験はできないし、その経験が僕は財産になるっていうふうに思ってるので、たとえ失敗しようが何しようがケガしようが、別にそれに対して悔いは残らないし、行くことに僕は意義がある、チャレンジすること、それが大切だなと僕自身は思ってます」
現状維持で老け込むことを選ばなかった男の言葉は重い。どこまでもチャレンジャー精神を持ち続ける松井の3年ぶりの海外移籍はやはり非常に興味深い。生粋のサッカー少年の完全復活が今から楽しみで仕方がない。