【京都市】中京区 高瀬川「映画発祥の地」近くで幕末ロマン『本間精一郎遭難地」と『八之舟入』
京都の繁華街のど真ん中にある『高瀬川』は、京都の人にとってとっても大切な川です。
『高瀬川』沿いは、『日本映画発祥の地』である『元立成小学校』や一之舟入などもあり日本映画の歴史に深く関わりのある『高津商会』でも大切な場所です。
ぜひ、過去記事をご参照いただけましたらと思います!
江戸初期の豪商である『角倉了以(1554~1614)』と『素庵(1571~1632)』の父子によって開鑿された『高瀬川』は京と伏見、大坂をつなぐ重要な水運ルートとして京都の経済活性に活躍しました。
東西に伸びる道路の一つで、古地図などによれば開鑿当初は、二条~四条間に7か所作られ、17世紀末には9か所に増えたそうですが、江戸時代中期には再ぶ7か所に減少したそうです。
「八之船入」通りと木屋町のあたりに碑と駒付がありました。「八之舟入」は、9か所時代の8番目の舟入跡とされています。
またそこには『本間精一郎 遭難地』という駒札がありました。
「本間精一郎」とは越後の尊皇攘夷派の志士。土佐薩摩両藩士の信用無く反感を買い岡田以蔵(人斬り以蔵)や田中新平衛ら6名の刺客に襲われて命を落とした場所だそうです。
ここは、多くの幕末ファンが訪れる場所でもあります。
1862年に暗殺、29歳の若さで命をおとした本間精一郎ですが、幕末の重要な出来事にも積極的に関わり、公家や薩長諸藩の志士たちとも盛んに交流していたそうです。
過激な論説で誤解を招くようなこともあったと言われている人物ですが、お酒におぼれることが多くなったことから同志にも嫌われることになった、と。
越後(新潟県)から江戸にて勉強し、安政大獄ののち京都にのぼり、「尊王攘夷運動」の急進派に所属していた「本間精一郎」は、「伏見寺田屋の変」以後、酒に溺れていたところ瓢箪(ひょうたん)露路を木屋町へ逃げようとしたが、暗殺されてしまう。
「高津商会」の小道具たちは、様々な幕末の映画やドラマに関わってきました。この地でまさに、幕末ロマンが繰り広げられていたと思ったらドキドキします♪
八之舟入 (本間精一郎遭難地)
住所:京都市中京区木屋町通四条上る1丁目