銀盤の松岡修造こと山口剛史、スウェーデンMDで熱盛連発! すべてはカーリングをメジャーにするために。
「僕のゴールは五輪でも五輪のメダルでもありません。カーリングをメジャーにすることです」
SC軽井沢クラブの山口剛史は公言する。いい成績を残した時は笑顔で、逆にうまく勝てないシーズンは悔しさを噛み殺してそう繰り返してきた。
山口は北海道空知郡南富良野町の出身だ。現在は廃校になってしまった町立落合小学校の同級生は山口を含めて4人。その同級生にはトリノ五輪代表の寺田桜子、トリノとバンクーバー、2度の五輪に出場した目黒萌絵がいた。
「あんま変わらないですね、昔から」と寺田も目黒も山口を評するが、本人は苦笑いしつつも「カーリング始めて、けっこう変わったと思うんですけどね」と首をかしげる。
「昔は取材も、知らない人と話すのも苦手だったんですよ」
SNSを駆使し、ブログも頻繁に更新し、SC軽井沢クラブの広報部長的役割を担う現在からは想像がつかないが、どこに分岐点があったかといえば、やはり世界で結果が出始めてからだという。
「実はソチ五輪には行けると思っていて。結果だけ見たら最終予選(13年12月/ドイツ・フュッセン)は負けてしまったんですけど、勝てそうな感覚は確かにあったんです。同時に平昌出場のためには世界選手権で勝ってポイントを取って、世界最終予選に出なくてもいいチームにならなくては、と思った。あのあたりから世界に対して、そして自分に対しての意識が変わったかもしれない」
その言葉どおりSC軽井沢クラブは16年のスイス・バーゼル、翌17年のカナダ・エドモントンの2つの世界選手権で着実にオリンピックポイントを加算し、平昌への扉をこじ開けた。
その時も山口は冒頭のセリフを言い放った。五輪は通過点、とまでは言わないが、五輪に出ること、そこで勝つこと、メダルを獲ることは、カーリングをメジャーにするためのタスクと捉えていたに違いない。
20年ぶりの五輪ということで、彼らを囲む状況も変わってゆく。それまではカーリング娘。一辺倒だったメデイアやファンが男子カーリングにも興味を示し始めた。山口が大声でラインコールをする姿や全身を震わせるようなガッツポーズ、涙もろいキャラクター。それぞれ世に知られていったのもこの頃からだろう。氷上の修造などと呼ばれ、ファンの間では銀盤の熱男のイメージが定着してきた。
同時に、カーリング以外の家族構成や趣味や休日の過ごし方なども興味、質問の対象になった。山口はその話題にも事欠かなかった。
持ち前の好奇心でアロマにヨガにピラティスにゴルフにコブラクションテープ、様々なことを心身のケアのために試した。“カーリング筋肉部”という謎の組織を立ち上げパワースイープの強化を進めてきた。その成果を旺盛なサービス精神でメディアに話してくれた。
「1%でも何か向上があるならトライしたい。気休めと言う人もいるけど、気が休まるならそれはそれでポジティブなことですし」
このイージーゴーイングな明るさは彼の長所であってカーラーとしての武器でもあるだろう。
ロコ・ソラーレ北見のメンバーも多趣味で明るいキャラクターの山口を「女子力が高い」という理由で“つよ姉”と呼び慕う。各会場の選手控え室やプレーヤーズラウンジで彼が残したインパクトについて教えてくれた。
「アロマを使っているから、いい匂いがしたほうにだいたい、つよ姉がいる」(本橋麻里)
「何年か前の全日本でつよ姉が集中力を高めるために瞑想していたんですけど、後光が差していて『えっ、神様!?』って二度見しちゃった。小鳥がいたらきっと、肩に止まると思う」(吉田知那美)
そうした試行錯誤と七転八倒の結果、辿り着いた五輪の地では「プレーに集中できている一方で、客観的に自分を観察できている自分もいた。これまでにない精神状態だったと思う。とにかくこの特別な楽しい時間が終わってほしくなかった」と理想のメンタルを手に入れた。
それだけに4勝5敗、あと一つの星でタイブレークという結果が悔やまれるが「この4年で積み重ねてきたチームの力は出し切った。実力どおりです」と本人はサバサバと振り返る。プレーオフ以降はスタンドで観戦したが「自分があのアイスに立って何を感じるか、知りたかったですね」とも。現実や現在地を受け止める強さも、夢の舞台での戦利品の一つなのかもしれない。
激動の今季の終わり、山口はまた新たな舞台に挑んだ。
4月18日ー28日までスウェーデン・エステルスンドで開催されたミックスダブルスの世界選手権に、日本代表として出場。藤澤五月との結成1ヶ月半の急造ペアながら、日本勢過去最高の5位という結果を残す。
「やるからには金メダルを目指していたので悔しさはありますが、多くのことを勉強させてもらった」
山口はそう振り返る。慣れない欧州のアイス、ミックスダブルス特有の戦術や、世界トップクラスの藤澤というフィニッシャーを活かすゲーム展開、様々なマネジメントを求められながらの戦いだったが、大会前から閉会式まで「これだけ長くカーリングしてきて、まだ知らないことがたくさんあった。楽しくて仕方ないっす」と終始嬉しそうな、少年のような笑顔が印象的だった。
また、「チームの状況や大会日程との兼ね合いはあるけれど」と前置きした上で、「チャンスがあればまた挑戦したい。次はもっと高いところに届くと思う」そうも発言した。レギュレーションが許せば、北京五輪では4人制とミックスダブルス、両種目に出場するという可能性もある。彼のゴール「カーリングをメジャーに」の道幅がまた少し、広くなったのかもしれない。
帰国前夜、「早く帰ってローリーをなでて、納豆と卵かけご飯を食べたい」という彼に、「今季はどういうシーズンだった?」と聞いてみた。ローリーとは彼の愛犬のトイプードルで、納豆は彼の勝負朝飯だ。
「本当に色々なことがあって、面白かったっす。多くの人にも会えたし」
確かに山口は、この1年、記者やテレビ関係者、代理店マンや知事や教授、そして他競技のアスリート。多くの人に会い、話を聞いた。「そこには絶対にヒントがあったし、刺激をもらえた」と言う。記者に「カーリングをメジャーにするにはどうしたらいいと思いますか?」と逆取材をかけたこともある。
その問いに対しての明確な答えはまだ出ていない。答えや選択肢が多すぎるのかもしれない。北京五輪まではあと1377日だが、山口のゴール「カーリングをメジャーに」まではどれくらいの時間を要するのだろうか。
あるいは、どんな時も前を向いて真摯に、感情を前面に出し、誰よりも熱くカーリングに取り組んできた山口剛史というトップカーラーの道程に、答えは落ちているのかもしれない。彼のブログのタイトルでもある「カーリング生活」はますます熱を帯び、まだまだ続いていきそうだ。