【ココ・シャネル伝説】お姫様ドレスVSジャージ“女性のカラダの開放”を目指した戦うデザイナーの生き様
ときは1901年、日本は明治時代のころ。
フランス・ノートルダムのとある修道院では、いつもシスターに叱責されている、1人の少女がいました。
ココ・シャネルといえば、ブランドの最高峰。
華やかな世界に身を置く、超セレブなイメージもありますが・・
幼少時代は母を亡くし、孤児らとともに修道院で暮らしていたのでした。
シスター「あなた!スカートを勝手に短くして、どういうつもりですか?」
修道院の暮らしは、なにもかもが質素で、厳しい規則に縛られていました。
シスター「その服は寄付され、ほかの娘達も着るものですよ。それを勝手に!」
ココ「ですが、この方がずっとスタイル良く、可愛らしく見えます。」
ココは何かにつけて寄宿舎のルールを逸脱し、問題児と見なされていました。
ココ「わたしはいつか必ずここを出る!そして女性の自立と自由を、広めるわ!」
彼女は密かに、そう決心していました。
お姫様ドレスの束縛
「ボンソワール、マドモアゼル!」
華やかで美しい上流社会。とうじ彼女らの素敵な服装と言えば、フリルいっぱいのドレスや、床に引きずるほど裾の長い、スカート。
そしてウエストを美しく見せる“コルセット”も、着用するのが常識でした。
これはカラダをきつく締めつけるほどキツいもので、いわゆる“お嬢様”や“令嬢”は
毎回メイドに手伝って貰わなければ、1人では着られないほどでした。
このコルセット着用は、中流階級も含めた、多くの女性たちに広まっていました。
修道院を出て、成人したココは思いました。
「女性は“お人形”じゃない。もっと自由に、活発に生きるべきよ。
衣服だって、もっとシンプルに美しさを表現できるわ。」
お姫様ドレスVSジャージ
ジャージ姿・・というと、いまの日本では体操服や部屋着のイメージです。
その格好のままでは、外に出るのが恥ずかしい・・という方も、少なくありません。
しかし元々はイギリスの“ジャージー島”という場所で、漁師たちが着ていたシャツの素材が、名の由来です。
丈夫で動きやすい。その特性に注目したココは、パリに自分の店をオープンすると
ジャージ素材で作った婦人服を、世に送り出しました。
また「装飾が少なくても、美しさは表現できる!」というコンセプトが、彼女の信念。
黒地一色の“リトルブラックドレス”等も作成し、それまでの“お姫様ドレス”に挑戦したのでした。しかし・・。
「あらあら、これじゃあまるで、喪服じゃない?」
とはいえ人々の価値観は、そうカンタンにくつがえりません。当初は激しい反発や嘲笑も受けました。
しかし実際に着こなしてみるとカラダに心地よく、何より見た目もスタイリッシュなのです。その評判はパリという枠を超え、瞬く間に広まりました。
華麗ながらも身動きしづらい“お姫様ドレス”より、颯爽とスタイリッシュに活躍する女性への憧れ。
ココの生み出す衣服は、姿だけでなく世の中の価値観さえも、変えて行ったのでした。
またココは衣服のみならず、香水や装飾品など、様々な新商品を開発しました。
しかし、いつのときも世の中の流行に、媚びることはしませんでした。
「私たちは皆に、こうなって欲しい。だから、こういう考えで〇〇を作る!」。
どのアイテムも確固たる想いを貫いて開発され、それがより一層ブランドの価値を高め、人々を魅了して行ったのでした。
パリのファッションバトル
そうして右肩上がりとなったココでしたが、ファッション界でライバルが登場します。
イタリア生まれの、エルザ・スキャパレリ。
彼女の主なコンセプトは、派手さや奇抜さ。その斬新なファッションは、世の中をあっと驚かせ、パリ中で話題となって行きました。
エルザ・スキャパレリと、ココ・シャネル。
2人は最先端を行く同士の人物ではありましたが、その信念はまるで相容れません。
エルザ「うふふ。シャネルほどのブランドになると、目新しいものを作らずとも、お客様に愛されるようで。なんとも、うらやましいですわー。」
※“あなたには斬新さがありませんね”という皮肉
ココ「あら、私は服を通じて、女性の生き方を提案しているの。めずらしいだけの流行は、すぐ忘れられてしまうから。あなたも、せいぜい気をつけてね!」
ひとたびパーティー会場で顔を合わせたならば、激しい女のバトルがくり広げられたと言います。
恐慌と挫折
しかし、やがて世界恐慌が起こると、シャネルの売り上げは、落ち込みました。
そんな折ハリウッドから「女優の衣装デザインを頼みたい」と、誘いがかかります。
ココは新たな活躍の場を求めて渡米。しかし、ここで思わぬ挫折を味わいます。
華やかさを競うハリウッドでは、ココの衣装は地味に映ってしまったのです。
「頼むから、もう少し映画のことを、勉強して下さらないかしら?」面と向かって女優から、そう言われることもありました。
しかしココは動きやすさと、シンプルな美しさという信念を曲げませんでした。
ところが、現実の女性が着ればスタイリッシュな服も、スクリーンでは映えず。
ココの衣装はイマイチな評判となり、予定の半分でアメリカを去る結果となってしまったのです。
そうして失意のうちにパリへ戻ると、いつの間にかライバルのスキャパレリが、ファッション界を席巻。
シャネル本店の目と鼻の先に、堂々と新店をオープンし、挑戦状を叩きつけてきたのでした。
そうこうするうち、シャネルでは従業員のストライキ等も発生。一時閉鎖に追い込まれるなど、大きな苦難が続きます。
第二次世界大戦の追い打ち
「いまにドイツ軍が、なだれ込んでくるぞ!」
さらには、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発してしまいました。
ナチスドイツは破竹の勢いで、ヨーロッパ中に勢力を拡大。
「そう遠くない将来、パリに攻め込んで来るぞ!」
そんな話が、完全なる現実となりつつありました。
ココは涙ながらも、これまで苦楽を共にしてきた店、メゾン・シャネルの継続を断念。56才の時でした。すべての従業員を解雇して整理すると、中立国のスイスへ避難。
のちにパリはあっけなく陥落し、ナチスドイツの占領下となったのでした。
夢をもういちど
それからスイスでの月日は過ぎ・・気づけばココは、70才になっていました。
第二次世界大戦が終結したのち、パリでは「ニュー・ルック」と呼ばれるファッションが流行っていました。
その特徴の一つは、足首まで伸びるフレアスカートや、コルセットでしぼったウエスト。
過去にココが葬り去ったはずの、ファッションでした。
「また女性たちの自由が、うばわれている!」
ココはこれまでの全てが否定された気持ちになり、いてもたってもいられなくなりました。
そして再び、パリに舞い戻ったのでした。
昔の知人に次々と電報を打ち、メゾン・シャネルの復活コレクションを開催。
しかし人々の価値観は、大きく変わっていました。
新聞各紙は「時代おくれのファッション」「憂うつな回顧展」などの見出しをつけ、評価は散々。
知人も「スイスで穏やかに暮らすことも出来たのに、なぜ戻ってきたの?」
と聞きました。しかし彼女は、答えました。
「退屈だったからよ。何もしないより、何かして失敗するほうが、よほど良かったわ!」
強烈な逆境にも関わらず、ココの信念は、折れてはいませんでした。
そうこうするうちにシャネルのファッションは、海を越えアメリカで注目され始めていました。
かつて映画界で拒絶された地ですが、アメリカは経済力とともに女性の社会進出が進み、動きやすさとスタイリッシュを兼ね備えた、ココの衣服が大人気に。
そしてアメリカの流行は逆輸入され、ヨーロッパでも再び見直され始めます。
そして有名女優や王族も着用したことから、再び女性たちの憧れとなり、
ここにシャネルの名声は、再び世界に返り咲いたのでした。
信念を貫き通した人生
ある朝ココが滞在するホテルに、シャネルのスタッフが迎えに行きました。しかし、ドアを開けて驚愕。
部屋のカーテンは破られ、あたりには布切れが散らばっています。
スタッフ「マ、マドモアゼル!こ、この状況は?」
ココ「ああ、昨夜ベッドに入った途端に、アイディアが浮かんでね。生地がなかったからカーテンで試作を。申し訳ないけど、フロントに謝っておいてちょうだい」
カーテンレールには、数々の試作品の衣服が、かけられていました。
たとえ世の中に人気でも、不人気に陥っても。若くても、歳を重ねても。
87才で亡くなるそのときまで、ココは生涯現役。ファッションデザイナーとしての生き様を、貫き通したのでした。
ココは若かりし頃、一時はイギリスの王族に求婚されたことがあり、それを受ければ“お姫様”として、優雅に生きる人生も、じゅうぶんに可能でした。
しかし彼女はそうした生き方を拒否し、ときに批判や嘲笑も待ち受けるファッション界へ。
凛々しく、純粋に、自らの想いを貫き通しました。
彼女の生み出したブランドは、衣服も香水も、どれも計り知れないほどの価値があります。
しかし、その本当の美しさは、彼女の生き様や信念にこそ、宿っている気がしてなりません。