パレスチナ:ハマースの「アクサーの大洪水」攻勢。なぜこうなった?これからどうなる?
2023年10月7日に、パレスチナの反イスラエル抵抗運動組織のハマース、そして同派の軍事部門のイッズッディーン・カッサーム部隊(以下カッサーム部隊)が開始を宣言した「アクサーの大洪水」攻勢は、イスラエルの兵士やユダヤ人入植者や、そしておそらくその場がそんなに恐ろしい所であるとの自覚がないまま居合わせてしまった者も多かったであろう外国人が多数死傷したり、連れ去られたりする、アラブ・イスラエル紛争史上未曽有の大事件となった。ところが、今般のできごとの当事者であるハマースが、なぜ、この時期にこんな大それたことをしたのかについての考察が疎かになっているように思われる。これをよく考えなければ、「今後どうなる」という問いについての考察も不可欠の当事者であるハマースや反イスラエル抵抗運動の側の論理や都合を捨象した一方的な「ストーリー」で終わってしまうだろう。本稿では、この「なぜ」を考察した上で「今後どうなる」について分析する。
はじめに、今般の事態については、それを仕掛けたことになっているハマースの側の情報発信や論理についてよく知っておく必要がある。となると、ハマースやカッサーム部隊の記者会見なり、声明なり、音声なり、動画なりはそこそこ時間をかけて付き合ってやらなくてはならないということだ。これらを眺めることは、楽しくないことはもちろん、しばしば不愉快ですらある。それでも、当事者が現下の状況をどのように感じ、何をしようとしているのかを知るためには、どんなに退屈でも不愉快でも不健全でも最初から最後までちゃんと読んだり聞いたりしなくてはならない。本邦の報道や分析は、ここで致命的な失態を犯した。カッサーム部隊は今般の攻勢を「アクサーの大洪水」と命名した。しかし、どういうわけか、本邦の報道機関、記者、専門家の大方は、これを「アクサーの嵐」と訳してしまった。語学や歴史の講義のおはなしなのだが、カッサーム部隊が用いた「大洪水」という単語は、ムスリムにとって神聖不可侵(なはずの)コーランでアッラーがエジプトのファラオに力を示したり、ノアの箱舟の挿話で発生させたりする天災、つまり「大洪水」としか訳しようのない単語だ。今やほんのちょっと手間をかければ、それがコーランに出てくる由緒正しい表現であることはすぐわかる。その手間を惜しんだ時点で、誰も事態をちゃんと理解する意志と能力を欠いていた、ということだ。ちなみに、筆者はハマースに限らず、自分たちがいかにもコーランやイスラームについて詳しいかを見せつけるかのような表現や用語を選択して他者に優位に立とうとするイスラーム主義者・イスラーム過激派が大嫌いだ。
次に、「アクサーの大洪水」攻勢の開始にあたってのカッサーム部隊司令官や、ハマースの最高幹部の報道談話を眺めてみよう。カッサーム部隊のダイフ司令官も、ハマースのハニーヤ政治局長も、今般の攻勢に打って出た理由をアクサー・モスク、パレスチナ囚人、パレスチナ人民の声明や財産に対する侵害としか述べていない。国連やイスラエル側の和平推進団体の発表によると、ユダヤ人入植者によるパレスチナ人に対する攻撃や、入植地の建設数は過去最悪水準である。しかも、9月末から10月初頭にかけてのユダヤ教の祝祭に合わせてユダヤ人入植者が大挙してアクサー・モスクに侵入したことは、ハマースにとってはアクサー・モスクに対してもイスラエルの主権を確立する準備行動に見えた。アメリカは、本来軍事行動による占領地で、それによる現状変更が認められないはずのエルサレムやゴラン高原(シリア領)に対するイスラエルの「主権」を認定し、それを咎めるものはこの世のどこにもいない。ハマースやその仲間は、アクサー・モスクにも近日中に同じことが起こると危惧したことだろう。
となると、ハマースの側は一言も言及していない「サウジをはじめとするアラブ諸国とイスラエルとの関係正常化」についての論評は、あくまで事態の核心から遠い者たちや、専ら外野による憶測や、世論の反応を制御しようとする外野によるストーリー作りの一環であるとの性質を無視できない。確かに、レバノンのヒズブッラーあたりにしてみれば、アラブ諸国や中東の国際関係を見据えて「敵方」の足を引っ張る広報が必要だ。だからこそ、ヒズブッラーは「アクサーの大洪水」攻勢開始当日の10月7日に、「攻勢は正常化を図る者たちへのメッセージだ」と論評する声明を発表した。しかしながら、サウジはもちろん、2020年以来アメリカの後押しでイスラエルとの外交関係を樹立した諸国にとって、パレスチナ、レバノン、シリアでの反イスラエル武装闘争は迷惑なものでしかなかった。例えば、北アフリカ西端の某国が、自国が抱える領土問題(こちらも侵略と占領の問題)での立場を承認してくれさえすれば、パレスチナ人民のことなんてどーだっていーという態度だったのは、周知のことだった。また、サウジについても、2006年にイスラエルがレバノンを攻撃した際、これと交戦したヒズブッラーを、当初「冒険主義」と非難した。アラビア半島の産油国のいくつかも、これに倣った。ヒズブッラーが(予想に反して)善戦するとともに、イスラエルによる破壊と殺戮が同派と無関係のレバノン人民や社会基盤に及ぶと、アラブ諸人民の世論がヒズブッラー寄りとなった。サウジなどの数カ国はここで面目を失い、後日戦闘中にヒズブッラー支援を貫いた某国の首脳が報道機関との会見で放送禁止用語すれすれの表現で彼らの態度をバカにした際、誰も面と向かって言い返せなかった。要するに、「関係正常化」の当事者にとって重要なのは、あくまで時宜であり、パレスチナ人民の福利厚生ではない。また、ハマースがこれを邪魔したい場合、「アクサーの大洪水」攻勢のような自殺的にも見える未曽有の軍事行動ではなく、「いつも通り」数日間ロケット弾を発射していればいいだけだ。
では、「アクサーの大洪水」攻勢はハマースの何の利益になるの?
今般の事態の最大の問いは、自殺的にも見える攻勢になぜハマースが打って出たかについて誰も上手に説明できない点だ。確かに、ハマースはイランから様々な支援を受けているが、だからと言って同派がイランの指令を受けて動くとか、イランと一蓮托生の道を選ぶとかということは断じてない。イランにとっても同様で、ハマースの振る舞いを口実にイスラエルと全面戦争する気なんてみじんもない。また、ハマースはあくまで現世で活動する政治運動であり、イスラームやアラブ民族主義やパレスチナ解放のような信条に基づいて現世的利益を度外視してイスラエルに武装闘争を挑む組織でも断じてない。ここでは、今般の攻勢でハマースが期待できる政治的得点のいくつかを挙げておこう。一つは、冒頭で挙げたように、アクサー・モスクやパレスチナへの侵害や、それが国際的に「なかったこと」にされている風潮に堪えがたい危機感を覚えたことだろう。もう一つは、ハマースとPA(パレスチナ自治政府)との権益や威信の争奪だ。オスロ合意が破綻し、「二国家解決」が机上の空論に過ぎなくなった現在、ハマースにとってPAと与党のファタハはその権威や正統性を奪い取る競争相手に過ぎない。実は、過去数か月間、レバノンのアイン・ヒルワ難民キャンプでイスラーム過激派らしき者たちと、キャンプを統制するファタハとの戦闘が続いているのだが、これにはファタハの地盤を突き崩そうとするハマースがイスラーム過激派をけしかけているとの陰謀論が唱えられている。さらに一つ挙げるなら、「アクサーの大洪水」攻勢は、過去20年間にムスリムの世論を幻惑し続けてきたイスラーム過激派に対し、イスラーム共同体への侵略者と闘い、現実的な戦果を上げているのは誰かを示す絶好の好機だということだ。十字軍・シオニスト(≒アメリカとイスラエル)と闘うと主張しているにも拘らず、近年ろくな戦果を上げられないアル=カーイダにも、パレスチナやエルサレムの問題なんてどーだっていーと公言する「イスラーム国」にも、過去数日間にハマース(とパレスチナの抵抗運動諸派)が上げた戦果は、よほど頑張らないと挽回できない大失態だ。今般の攻勢により、ハマースはアラブ民族やイスラーム共同体を代表して侵略者と闘う地位を回復できる。
最後の一つとして、過去10年くらいのハマースの政治的失態を挽回するための攻勢としての側面も指摘しておこう。ハマースは、「アラブの春」で同派の母体であるムスリム同胞団が政治的成功を収める中、長年「抵抗枢軸」として戦列を共にしてきたイラン、シリア、ヒズブッラーを見捨て、ムスリム同胞団の側についてシリア政府打倒のための武装闘争に関与した。しかし、その後ムスリム同胞団はエジプトで政権を追われ、シリアでの武装闘争にも見込みはなくなり、アラブ諸国の多くからテロ組織と認定されるまでに失墜した。その結果、ハマースは2022年10月に半ば降伏して詫びを入れる形でシリア政府と「復縁」し、「抵抗枢軸」の末席に復帰することとなった。この間、イランもシリアもヒズブッラーも、ハマースが与した者たちと文字通り血で血を洗う戦闘を繰り広げていたわけだが、シリア政府との「復縁」後のハマースの居心地がよくなかったことは想像に難くない。また、「フツーの政党」としてガザ地区での与党の立場を守ろうとするだけのハマースの態度は、パレスチナ・イスラーム聖戦(PIJ)などの他の抵抗運動組織にとって許しがたいものに見えただろう。
「アクサーの大洪水」攻勢は、このところ「抵抗枢軸」の中で居心地が悪かったハマースの地位を一気に挽回するものだ。カッサーム部隊のダイフ司令官は攻勢開始を告げる演説で、「レバノン、イラン、イエメン、イラク、シリアのイスラーム抵抗運動に対し、イスラエルに(抵抗運動の)指導者を暗殺したり、資源を収奪したり、イラクやシリアを日常的に爆撃したりする時代が終わったことを思い知らせろ」と扇動した。これは、今般の攻勢を「抵抗枢軸」内での地位回復にかけるハマースの意気込みを反映したものだ。
ハマースにとって望外だったのは、イスラエル政府が同国の「法律」に則ってハマースなりガザ地区なりに「宣戦布告」してくれたことだ。国内法でも国際法でも、「宣戦布告」は布告する相手に法人格を認め「戦争の始まりと終わり」に際して何かの手続きが必要となる行為だ。これは、かつて何の法的根拠をもってどこの誰に何をしようとして「宣戦布告」したのかさっぱりわからなかったアメリカによる「テロとの戦い」とは全く違う行為だ。これまで、イスラエルはハマースの、ハマースはイスラエルの存在を認めず、双方に何か合意や了解があったとしてもそれは第三国や国際機関を通じた間接的なものに過ぎなかった。外交場裏でいろいろな当事者が「見えないふり」してきたハマースが法的な地位を獲得したという意味で、「アクサーの大洪水」攻勢は既に大戦果を上げた。
これからどうなるの?
目下懸念されているのは、イスラエルが電力などの供給を断ち、空爆・砲撃を続けているガザ地区の人道状況だ。さらに心配すべきなのは、イスラエル兵でも入植者でもない外国人を含む、多数の人々が「人質」同然にハマースや抵抗運動諸派に捕えられていることだ。彼らは、イスラエルによる攻撃を抑えるための材料、諸派が政治的得点を上げるための材料として徹底的に利用されることだろう。では、どのような事態の推移が予想されるだろうか。これは、あくまで現場の動きが激しすぎてどの当事者もちゃんと事態を把握したり説明したりできない時点での可能性についての考察だ。
一つは、パレスチナ側がロケット弾発射のような軍事的効果の薄い攻撃をし、イスラエルはそれを一方的にぶちのめすが既存の勢力圏を大きく変更しないという「ルール」が激変する可能性だ。「ルール」が激変するような事態とは、イスラエルがガザ地区を再占領したり、ハマースの最高幹部を暗殺したりするようなことが考えられている。ただし、後者については、イスラエルは既に2004年3月にハマースの創設者にして最高幹部だったアフマド・ヤーシーンを何の躊躇も良心の呵責もなく殺害した。ヤーシーンの後を継いでハマースの最高指導者になったアブドゥルアジーズ・ランティーシーは、ヤーシーンの殺害について「イスラエルは地獄の門を開いた」と評したが、地獄の門が開く前の2004年4月にやはりイスラエルに殺害された。要するに、イスラエルがハマースの最高幹部を殺すことなんて造作もないことで、ハマースはそれに有効な反撃はできないということだ。従って、イスラエルが「ルール」を変えるような軍事行動に出るとしても、具体的に何をするのかの選択肢は極めて狭いということだ。ついで、「国際社会」の働きかけが功を奏し、イスラエルによる軍事行動が「ルール」の範囲内に収まる可能性だ。最も、そうするためにはパレスチナ諸派が捕えて交渉材料とする人質の数が多すぎるようにも見えるし、何よりもイスラエルがハマース(なりガザ地区)に法的に「宣戦布告」してしまった時点で、「ルール」は変わってしまっているようにも思える。イスラエルに自派を「紛争当事者として認めさせる」ことだけでも、かつてヒズブッラーが達成したのと同様の大戦果だ。最後は、上記の二つの可能性の中間、すなわち、イスラエルはこれまでと異なる攻撃をするが、それが「ルール」を変えるには至らない可能性だ。ここで事態を収束させるには、イスラエルが「アクサーの大洪水」攻勢によって失墜した(周囲の敵対者に対する)抑止力を回復することが肝要らしい。
もちろん、現在の戦闘を収束させる(させない)上での不確定要素もたくさんある。ヒズブッラーや在レバノンのパレスチナ諸派がレバノン方面での戦闘を激化させることがその筆頭だ。ヒズブッラーやその仲間たちは、「抵抗枢軸」の連帯を示すためレバノン方面やシリア方面にイスラエルの戦力を引き付け、余分な動員をさせるための陽動程度のことは当然するだろう。ガザ地区・ヨルダン川西岸地区の社会経済情勢、そしてイスラエルが収監しているパレスチナ囚人の処遇、さらにはアクサー・モスクの状況が悪化することも不安定要因だ。これらの状況が悪化すれば、ハマースなどはそう簡単に交渉や停戦に応じられないだろう。筆者は門外漢だが、イスラエルの内政危機や社会の分断も不安定要素の一つだ。現在のイスラエル政府が、外敵を設定することによって国内の支持を高めようとする(=「旗下効果」を期待する)ならば、ハマースとの戦闘や緊張は「それなり」の範囲で制御されつつ長期化するだろう。
重要なことは、本件に限らず情勢を分析する際には客観的状況や当事者が発信する情報を良く学んだ上で、それに基づいて様々な可能性について考察することだ。諸般の情報の内都合のいいものだけをつまみ食いしたり、一部を無視・省略したりした末に事態を論じるのは、現実から遊離した「国際関係談義」か悪意のストーリーづくりにしかならない。