「もうちょっと早く会いたかった」角盈男が選手・コーチ・敵の視点で語る「監督・野村克也」【前編】
1980年代に読売ジャイアンツのリリーフエースとして一世を風靡した角盈男(すみ・みつお)はON、すなわち王貞治、長嶋茂雄両監督の下でプレーしただけでなく、今月11日に84歳でこの世を去った野村克也とも浅からぬ縁がある。現役最終年に野村監督率いるヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)でプレーし、引退後は野村監督を支えるコーチとして日本一を経験、さらには巨人のコーチとして野村ヤクルトと戦った経験もあるからだ。その角に、選手・コーチ・敵という“3つの視点”から見た「野村監督」を語ってもらった。
「ID野球を知りたくて」ヤクルトへ
長嶋監督時代の1978年に新人王に輝いた角(当時の登録名は角三男)は、藤田元司監督の下で巨人が8年ぶりの日本一に返り咲いた1981年に最優秀救援投手賞を受賞。王監督時代の1987年には、中継ぎとしてセ・リーグ優勝に貢献した。1989年の途中で日本ハム・ファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)にトレードされ、3シーズン目を終えたところで告げられたのが、野村監督就任3年目を迎えようとしていたヤクルトへのトレードだった。
「ヤクルトが左ピッチャーを探してるっていうことで、小川(淳司、現ヤクルトGM)とトレードになったみたいですけどね。日ハムでは先発もやらせてもらったし、(現役を)辞めても悔いはなかったんですよ。リリーフとはまったく違う生活をしていたし『セ・リーグに行ってまたリリーフ? もういいよ、オレは』っていう気持ちもあったんですけど、『野村さんのID野球って、どういう野球なんだろう』っていう興味があって、それを知りたくて行った感じです。現役はもう勘弁してって思ってたんですけど(笑)」
初めて「ID野球」に触れたのは、移籍1年目の春季キャンプ。米国アリゾナ州ユマで毎晩、野村監督が行うミーティングは、最初は特別なものには映らなかったという。
「もちろんペンとノートは持っていきましたけど、最初は人生の話からですからね。『基本的なことだな、何でもないな』とは正直、思いました。ただ、周りをみたら選手もコーチもみんなノートを取ってるんで、それで書き始めたっていうところです。監督もそんなに難しいことは言ってないんですよ。『そんなの当たり前じゃん、わかってるよ』って思うんだけど、それを言ってみろとか、書いてごらんっていわれてできるかって言ったら、無理なんですよね」
当たり前のように感覚として身についているものを言葉にする──それはプロの世界で14年間生きてきた角にとっても、まったく新しい経験だった。
「たとえば技術論にしても、野球選手はある意味、感覚的なもので覚えてるんで、それを言葉にするっていうのは大変なんですよ。それが書くこと、言葉にすることで明確になる。だからわからなくなった時や迷った時に、ノートを見ればいいんです。しかも自分で書いてるから、どこに何が書いてあるかも全部わかるんですよね。これは余談になりますけど、阪神(時代の野村監督のミーティング)では書かせなかったんですよ。野村ノートを印刷して配っちゃったんです」
当時のヤクルトの選手には、もう主力だった広澤克実(当時の登録名は広沢克己)や古田敦也、池山隆寛(現ヤクルト二軍監督)もいれば、まだ入団2年目の高津臣吾(現ヤクルト監督)らもいた。
「恩恵を受けたのは自分もそうですけど、いわゆる『野村門下生』といわれる選手ですよね。のちに(選手兼任で)監督をやった古田が筆頭ですけど、池山もそうだし、橋上(秀樹)なんかもそんなに実績がなくてもいろんなところ(楽天、巨人、西武、ヤクルト)でコーチをやってるじゃないですか。広澤だって、解説してて次の球を当てるっていうのは野村さんのおかげですよね」
「『引退するなら100セーブやらせてやったのに』って」
このシーズン、ヤクルトは野村監督の下で14年ぶりにセ・リーグを制覇。当時36歳の角も、左腕不足というチーム事情もあって積極的に起用され、チーム最多の46試合に登板。先発中心だった日本ハム時代は1つしかなかったセーブも、5つを記録した。だが、巨人時代以来の優勝を花道に、角は自らの意志で現役生活にピリオドを打つ。
「監督には怒られましたけどね、『なんで勝手に辞めるんじゃ』って。『(代わりの)左ピッチャーを探してこい』って言うから『それはオレの仕事じゃないですよ』って(笑)。だんだんしんどくなってきて、これ以上やったら監督に迷惑がかかるし、チームにも迷惑をかけると。要するにもう自分に自信がなかったんです。だから、もうちょっと早く監督と会いたかったなとは思いましたね。もうちょっと力が残ってる時に(ヤクルトに)呼んで欲しかったです」
引退までに角が積み上げた通算セーブ数は「99」。当時はまだ5人しか成し遂げた者のいない通算100セーブに王手をかけたまま、ユニフォームを脱いだことになる。
「野村さんに言われましたよ、『だったらお前、100(セーブ)やらせてやったのに』って。まあ、オレの中ではカッコよく『記録をつくるためにやってるわけじゃないんで』って思ったんですけど、今思うとやっときゃ良かったなって(笑)。でも、監督にそう言ってもらっただけでもありがたかったです」
現役を引退した角は、マルチな才能を生かしてタレントに転身。その時点で、再びプロ野球のユニフォームを着ることはないものと覚悟していたという。
「当時はタレントをやったら野球はもう捨てたと思われてましたから。先輩の坂東英二さん(元中日)とか、あとは定岡(正二、元巨人)もそうでしょ。バラエティもやってましたし、タレントをやったら『もう野球は捨てた』みたいな、そういうのが当時はあったんですね。だから元木(大介、巨人ヘッドコーチ)や宮本(和知、巨人投手チーフコーチ)が『角さんがああやって(コーチを)やったから、僕らもなれた』って言ってたって聞きましたよ」
のちに再び野村監督と邂逅することになろうとは、その頃は知る由もなかった。
(文中敬称略)
※【後編】に続く