「要望はキツかったけど楽しかった」角盈男が選手・コーチ・敵の視点で語る「監督・野村克也」【後編】

野村元監督の死去を受け、2月15日には神宮球場にも献花台が設置された(筆者撮影)

 1980年代には読売ジャイアンツのリリーフエースとして一世を風靡し、日本ハム・ファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)を経て、1992年に野村克也監督率いるヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)に移籍した角盈男(すみ・みつお)。セ・リーグ優勝を花道に、この年限りでユニフォームを脱いだ角が再び野村監督と邂逅するのは、1994年秋のことだ。

選手の処遇を巡り、監督に「優勝しなくていいんですね?」

「野村さんは次の年(1995年)が(ヤクルトの監督として)最後の予定だったんですよ。だから最後のわがままでピッチングコーチを代えてくれって言ったんですけど、(任期が)1年しかないのがわかってるんで、みんなに断られたみたいなんです。でも、オレは無条件で受けるつもりでした。(現役時代に)1年しかノムさんのところで勉強してないんで、もうちょっと野村野球を覗いてみたいと思って」

 ヤクルトのコーチ就任に当たって、角が知りたかったのは野村監督が自身に何を望んでいるかということだった。現役を引退して2年、指導者の経験はない。ましてや、当時はもうプロ野球の世界には戻れないという風潮すらあったタレント業からの転身である。

「『監督は僕に何を要望するんですか?』って聞いたら『お前の好きなようにやれぇ』って、それだけでしたね。言われてうれしい反面『責任重っ!』って思いましたけど、インサイドワークうんぬんは監督がいるし、その愛弟子の古田(敦也)もいるから、そっちに任せとけばいい。オレが配球どうのこうの言う必要はまったくないんで、選手のコンディションを中心に考えておけばよかったんです」

 ただし、ヤクルトは前年までは他球団と同様に一軍投手コーチ2人体制だったのが、この年は角1人。リーグ5位のチーム防御率4.05という投手陣の立て直しを、コーチ1年生が一手に引き受けることになった。開幕前には当時プロ13年目の荒木大輔(現日本ハムファーム監督兼投手コーチ)を巡って、野村監督とこんなやり取りもあったという。

「荒木を(二軍に)落としたんですよ。ヒジが悪くてオープン戦で1試合も投げてなかったから。そしたら監督に呼ばれて『おい角、お前このチーム知ってんのか、こら。荒木を切ってどうすんじゃ!』って怒られましてね。だから『監督が優勝しなくていいんだったら、どうぞ(開幕一軍に)入れてください。僕はピッチャーを任されて、あくまでも優勝するためにっていうところで考えたんですけど、決定権は監督にあるわけですから。優勝しなくていいんですね?』ってハッキリ言ったことはあります。そうしたら『好きにしろ』って言われて終わりましたけど」

 前年、2ケタ勝利を挙げた先発投手は11勝の岡林洋一(現ヤクルトスカウトグループ課長)だけ(ほかにリリーフ中心の山田勉が10勝)。この投手陣でどうやって1年間戦うか──。考え抜いた末に、角が出した答えはエースの岡林を中心に、若手の石井一久(現楽天GM)と山部太(現ヤクルト編成グループ課長)、近鉄バファローズから移籍の吉井理人(現ロッテ投手コーチ)、新外国人のテリー・ブロス、そしてベテランの伊東昭光(現ヤクルト編成部長)という6人で、基本的に中6日で回す先発ローテーションを組むことだった。

「監督には怒られましたよ、(先発予定が)暦どおりなんで。『これじゃ予告先発やろ』って(当時、予告先発制度はパ・リーグだけ)。でも、岡林もそんなに(肩の)状態がいいわけじゃなかったし、若手には強化が要る。ベテランには少し休養を与えながら、なんとか1年間回していこうっていうことですよね。監督には『中6日も休むんか』って言われましたけど、理由をちゃんと言ったらわかってくれました。裏付けがないと監督は絶対に怒りますから。だからピッチャーに関しては、何を聞かれてもすぐに答えられるようにしてました」

嫌みと受け取るか、目標設定と受け取るか

 岡林は8月に7勝目を挙げたところで右肩痛により離脱したものの、山部の16勝を筆頭に残る5人はいずれも2ケタ勝利をマーク。1シーズンに5人の投手が10勝以上を挙げるのは、球団史上でも初めてのことだった。

「いろいろありましたけど、楽しかったですよ。監督の要望はキツかったですけど、『これをなんとかせい』っていう目標を与えてくれましたし、オレも言われれば言い返してたんで(笑)。要は嫌みと受け取るか、アドバイスというか目標設定と受け取るかなんですよ。たとえばあの年は山部が前半だけで11勝して、(監督が)褒めてくれるのかと思ったら『20勝させろ!』って言われて。『はぁ!?』って思いながらも、じゃあなんとか20勝させようって考えるわけです。だから、目標設定をいただいたなと思うんですけど……ちょっとぐらい褒めてから言ってくれよとは思いましたけどね(苦笑)」

 このシーズン、序盤から首位を独走したヤクルトは、最後は2位の広島東洋カープに8ゲーム差をつけて2年ぶりのリーグ優勝。オリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)との日本シリーズでは、2年連続パ・リーグ首位打者のイチロー(現マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)の封じ込めに成功する。

「あれは監督が主演男優賞なら、オレが助演男優賞(笑)。要するにイチローに欠点がなかったんですよ、調べたら。だから監督が心理作戦を仕掛けたんです。天才っていうのは『欠点がある』って言われるのを嫌うから、あえて『イチローの欠点はインハイにあり』っていうのを、監督も僕もマスコミに出てバンバン言ったんです。イチローはやっぱり引っ掛かりましたよ。でもバレちゃって、5戦目にホームランを打たれたんですけどね。そこまで3勝1敗だったんで、最後はかろうじて勝って。あれ、もし2敗してたら(シリーズに)負けてたかもしれないです」

 初めてのコーチ業で味わう日本一の美酒。「うれしかったですよ。ピッチングコーチはオレ1人なんで、ピッチャーの手柄は全部自分のもんでしたから」と振り返るが、“大人の事情”により「日本一の投手コーチ」はこの年限りで退団する。

「監督は事情を知らないから『角はオレよりも金を要求した』とかなんとか延々言われて……(苦笑)。次の年の夏ぐらいかな、タレントに戻ってサッチー(沙知代夫人)と一緒に番組に出た時に『あんた、どうだったの?』って聞かれていきさつを話したんですけど、それからは監督にも何も言われなくなりました」

巨人はちょっとでも打たれると「サイン盗みをしてる!」

 ヤクルト退団から2年、角は1997年に投手コーチとして古巣の巨人に復帰。今度は敵として野村ヤクルトと戦うことになる。

「その時はブルペン担当でリリーフピッチャーのことで頭がいっぱいでしたから、相手と戦ってるっていう感じはなかったですね。でも、やっぱりいやらしいなと思いましたよ、野村さんの野球自体がね。相手の裏をかくというか」

 この年、ヤクルトは開幕から1度も首位の座を明け渡すことなく、野村監督就任以来4度目のリーグ制覇。日本シリーズでも西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)を4勝1敗で下し、野村監督の下では3度目となる日本一に輝く。一方、そのヤクルトに8勝19敗と大きく負け越した巨人は、長嶋茂雄監督復帰後、初のBクラスに沈んだ。

「相手がどうのこうのよりも、巨人はなんでこうなの?っていうほうが強かったですね。ヤクルトとの試合でちょっとでも打たれると『サイン盗みをしてる!』っていうんですけど、オレからしたら『してないですよ』って。そりゃ配球を見てたらわかるじゃないですかって。まあ、オレらもアドバイスできるような立場じゃなかったんですけど、当時の巨人は結果が悪いと、自分のせいじゃなくて他人のせいにするところがありましたね」

 結局、角は自らの意思により1年で巨人を退団。その後はユニフォームを着る機会のないまま歳月が流れ、今年で64歳になろうとしている。「もうオレなんかがユニフォームを着るような時代じゃない」と笑うが、野村監督の下でプレーし、コーチを務めたことで得た財産を、いつまでも押入れにしまっておくのはもったいない。

「角ィ、お前まだユニフォーム着ないんか?」

 2月に84歳で他界したばかりの野村監督も、あの世でそうボヤきながら、かつての懐刀が再び指導者となる日を待ち望んでいるのではないだろうか……。

(文中敬称略)

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