【京都市】山科区 『東海道』にある大津と京都の間にあった『車石(車輪形の敷石)』と明治天皇御遺跡…
滋賀の大津から京都へ続く『東海道』の入り口に、『車石』についての駒札と『車石』があります。
車の轍(わだち)跡がついた石のことです。
物資輸送の効率化に寄与した京都~大津間の「車石」。
『東海道』では安全のため、京都に向かって左に人馬道(往還、歩道)、右に牛車道が併設して設けられていたそうです。
京都に入る最後の難所であった逢坂山には、牛車の車輪が通りやすいように「車石」が1805年に敷設されました。
大津からは、米俵に入った米を含め多くの物資が運び込まれました。
荷はおもに米俵などで、ほとんどが年貢米だったそう。
また京都から大津のほうを向くと、三条大橋を起点に「京の七口」の一つである「粟田口」から山科を経て大津に達する道で、江戸の日本橋まで続いていました。
逢坂山から京都の方へ行くと、日ノ岡峠が出てきます。
京都市内へと続く道の最後の砦になります。
過去関連記事をご参照ください→
「東海道」の日ノ岡峠にある『車石広場』で牛車、車石、米俵が観れる♪
車石(車輪形の敷石)は、「東海道」のほか、「竹田街道」、「鳥羽街道」にも設けられていました。
車石の石材は、滋賀産の花崗岩の木戸石が最も多く、横木、四宮付近では石英斑石の藤尾石、京都近辺の三条、蹴上付近では白川石などが用いられていたそうです。
江戸時代後期に京都に造られた牛車専用道路は、いったい誰がスポンサーとなりその石材はどうやって調達されたのでしょうか?
そこには脇坂と近江国日野の商人である中井 源左衛門らが750両を拠出したと伝えられますが、残高が誰の支援だったのかはわからない、とのこと。
石の溝が摩滅により自然についたものか人為的に形成されたものかも不思議の一つだそう。
もともと、街道での荷車の使用は禁止されていました。しかし、東海道、中山道、琵琶湖からの物資が集まる大津は別。
しばしば日ノ岡峠では、改修工事が行われました。木食養阿(もくじきようあ)上人によるものは、天文年間の改修と呼ばれました。その工法は「大石砂留め法」といい、車のわだちに小石を埋めて平坦にし、ところどころに大石を埋め込んで安定させるものだったそう。
日ノ岡峠にある記念碑では、峠を約3.5m切り下げたことを伝えています。
京都の心学者である脇坂義堂による進言で、1805年に1万両の工費を投じ、大津八町筋から京都三条大橋に至る三里の区間に設置したものと言われています。
「近江名所図会」に描かれた「逢坂山」では、人馬道より一段低いところを牛車が通っている様子が描かれているのが見えるそう。
東海道沿いには、「明治天皇御遺跡」の石碑も見られました。(ホテル山楽南側)
こちらの「東海道」と書かれた石標。JR山科駅前の道と三条街道(旧東海道)が交差する場所から少し東へ行った北側にあります。
この裏面には、「昭和23年11月に往来安全のため三品英造建立」、側面には「大津札の辻まで一里半」と刻まれています。
こちらは、山科駅からすぐのところにあるホテルの東海道沿いにあります。
『高津商会』には、日本映画やテレビドラマに使われる米俵の小道具などがたくさん、宇治田原の倉庫にあります。
米俵を乗せた牛車が通っていたことを想像しながら、「東海道」を行くのは感慨深くなりますね。
明治天皇御遺跡・旧東海道 石碑
京都市山科区安朱桟敷町