ようやく全容が見えてきた、地方病と人々の戦い
人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。
日本においても甲府盆地にて地方病が蔓延しており、地方病との戦いは山梨県の歴史に大きな比重を占めているのです。
この記事では地方病との戦いの軌跡について引き続き紹介していきます。
困難だった早期治療
日本住血吸虫の発見とその感染経路の解明は、地方病の予防において大きな成果でしたが、すでに罹患した患者に対する治療は非常に困難でした。
住血吸虫は血管内に寄生するため、従来の虫下しでは駆除できず、研究者たちは血管内部の寄生虫を駆除するための方法を模索したのです。
1918年から1923年にかけて、東京帝大伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の宮川米次と製薬会社の萬有製薬は共同で駆虫薬の開発を行い、スチブナール (Sodium-antimony-tartrate) を生み出しました。
山梨県で300人以上の患者を対象にした臨床試験の結果、門脈内に寄生した日本住血吸虫の卵巣機能を破壊し、卵を産めなくさせることが確認されたのです。
しかし、この治療には技術的に難しい二十数回もの静脈注射が必要で、副作用として体中の激しい痛みや悪心、嘔吐などが発生する代物であり、患者への負担が大きいものでした。
約半世紀後の1970年代、ドイツのバイエル社が副作用を低減した飲み薬プラジカンテルを開発するまで、スチブナールは唯一の治療薬でした。
しかし、どちらの薬も体内の寄生虫を殺すものであり、すでに臓器に蓄積された卵殻を除去することはできず、完治には至らなかったのです。
セルカリアが体内に侵入してから自覚症状が現れるまでの間に診断と治療が行われないと、症状が悪化してからの治療はさらに困難になるため、早期診断が重要でした。
当初、地方病の感染検査は他の寄生虫病と同様に糞便検査が行われました。
しかし日本住血吸虫の寄生場所は血管内であり、従来の検査方法では感度が低く、感染を見逃すことが多かったのです。
戦後、山梨県の地方病研究所はアメリカ軍との共同開発で皮内反応を導入し、MIFC(遠心沈殿法)による検査法を確立しました。
これにより、検出精度は格段に向上し、甲府盆地での糞便検査では、従来の0.1%からMIFC法で2.7%に上がったのです。
こうした技術革新により、地方病の早期発見と治療が可能になり、多くの患者を救うことができました。
ようやく明らかになった感染者数
1910年から翌年にかけて、山梨県医師会が主体となり、甲府盆地全体の地方病の発生状況を調査するための健康診断と臨床検査が行われました。
これは甲府盆地の45市町村に住む約69,000人を対象に、肝臓や脾臓の肥大、腹水の有無などを基準にして地方病の罹患状況を初めて医学的に統計調査したものです。
その結果、7,884名が地方病と診断され、平均罹患率は11.4%に達しました。
甲府盆地全体では西側の地域で罹患率が高く、東部では罹患者がほとんど見られないという地域差が明らかになったのです。
この調査以降、住民の感染状況は定期的に監視され、昭和30年代中盤からはより精密な皮内反応検査が導入されました。
1973年には一時的に患者数が増加しましたが、これは新しい検査法による罹患者の確認が進んだ結果です。
この一連の調査と診断は、地方病の全貌を明らかにする上で重要な役割を果たしました。