【九州三国志】島津忠恒、その矛盾と功績の狭間で!冷徹な政治力と数奇な人生を歩んだ名君
天正4年(1576年)、島津義弘の三男として誕生した島津忠恒(後の家久)は、戦国時代から江戸初期にかけて波乱に満ちた人生を送りました。
青年期には酒色に溺れ、蹴鞠に興じる放蕩生活を送りながらも、次兄・久保の陣没を機に家督を継ぐ後継者に選ばれると、その天性の武勇を発揮していくこととなります。
慶長の役では父・義弘と共に泗川の戦いに参戦。
8,000の少数精鋭で明軍数万を撃破する戦いぶりは、武将としての才能を遺憾なく発揮しました。
しかし一方で、忠恒の横暴に耐えかねた雑兵が敵方に逃亡する記録もあり、冷徹で独善的な性格が垣間見えます。
帰国後、慶長4年(1599年)には島津本宗家の家督を継承し、「羽柴薩摩少将殿」と称されたものの、この直後に家老・伊集院忠棟を手にかける事件を起こしました。
忠棟は豊臣政権内でも影響力を持つ人物であり、その殺害は豊臣家に対する反逆とも解釈されかねない行為であったものの、後の石田三成の失脚により、忠恒の行為は不問に付されることとなります。
その後、忠棟の子・伊集院忠真が反乱を起こしたものの(庄内の乱)、忠恒は家康の承認を得て反乱を鎮圧。忠真を含む一族を粛清し、自らの権力基盤を強固なものとしました。
この背景には、島津一族内で忠恒ではなく別の人物を後継者に推す動きがあったとされ、忠真らの処刑はその根を断つための政治的手段だったと考えられます。
忠恒は関ヶ原の戦い後に家康への謝罪と講和を取りまとめ、本領安堵を勝ち取りました。
慶長14年(1609年)には琉球に出兵し、これを占領して薩摩藩の支配下に置くことで、経済的基盤を確立。
鹿児島城(鶴丸城)の築城や外城制の整備などを通じて藩政の基盤を築く一方で、幕府に忠誠を示すため早期に参勤交代を実施するなど、冷徹な政治手腕を発揮しました。
また、忠恒は文化的素養にも優れ、和歌や茶の湯を嗜む一方で、剣術にも通じていました。
鹿児島湾を「錦江湾」と名付けたのも彼の詠んだ歌に由来するとされます。
しかし、正室の亀寿とは不仲で、義久の死後は側室を複数抱え、その間に33人もの子をもうけました。
この子女を重臣らの養子に送り込むことで家中を掌握する一方、異母兄弟や忠恒に反抗する者に対しては冷酷な粛清を行い、島津家の内部をまとめ上げたのです。
晩年には松平姓を賜り薩摩守に任じられるなど名誉を重ねたものの、領地問題や家督相続を巡る不和も絶えませんでした。
寛永15年(1638年)、62歳で没した際には9名の殉死者を出すなど、家臣たちからの絶対的な忠誠を集めたのです。
忠恒の人生は、政治力と武勇で薩摩藩の基盤を築きながらも、内外の敵を排除するため冷徹さを持って挑んだ矛盾と功績の交錯するものでした。
その影響は、薩摩藩の未来に大きな足跡を残しています。