冷戦の記憶と平和 被爆者とウクライナ若者がレイキャビクで見たもの
歴史的な「ホフディ・ハウス」を巡る旅
「戦争は、話し合いができないから、起きてしまうんだよ」
「ホフディ・ハウス」の書斎で、被爆者である小川忠義(おがわ ただよし)さんは孫にそう語り掛けた。
「ホフディ・ハウス」は、世界の歴史が刻まれた場所だ。北欧アイスランドの首都レイキャビクに位置するこの小さな建物で、かつてアイスランドと諸外国との時代の波がうねることとなった。
冷戦終結の象徴、レイキャビク会談の舞台
1986年10月、米国のレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長の首脳会談(レイキャビク会談)が行われ、冷戦終結のきっかけとなったことで、「ホフディ・ハウス」は世界的にその名を知られることとなった。
被爆者とウクライナの若者たちとの特別な訪問
6月、筆者は北欧社会について講演するために、水先案内人として、NGOピースボートの船に乗っていた。寄港地であるレイキャビクを降りて、同船していた「ウクライナ・ユース・アンバサダー」の若者7人と、「おりづるプロジェクト」の広島・長崎の被爆者の方々とともに、ホフディ・ハウスを訪れることとなった。
「ウクライナ・ユース・アンバサダー」と「おりづるプロジェクト」の取り組み
「ウクライナ・ユース・アンバサダー」は、日本在住のウクライナの若者がクルーズに参加して、世界各地でウクライナの現状を世界に伝え、平和や復興のためにできることを世界に訴える、在日ウクライナ大使館協力のプロジェクトだ。
「おりづるプロジェクト」は、広島・長崎の被爆者とともに船旅をし、世界各地で原爆被害の証言を実施することで、核廃絶のメッセージを世界に届けるという2008年から続くプロジェクトである。
歴史的なテーブルで、何を思う
「建物は、もともとアイスランドのフランス領事のために建てられたんです。この家は何度か所有者が変わり、レイキャビク市のものになりました。そして1986年、ソ連とアメリカ両国の核兵器が増強され、冷戦の真っ只中にあった。誰もが核戦争が勃発し、世界中が恐怖に包まれることを恐れていました。突然、ソ連とアメリカの指導者たちが話し合いを始め、1986年に会談することになったのです。それがこの場所でした」と、案内人であるステファン・パルソンさんは話す。
「ヨーロッパとアメリカの真ん中ということで、レイキャビクで数週間後に会うと発表されたときは、誰もが本当に驚きました」
アイスランドの人々はそのことをニュースで知り、大仰天!
「世界中からの何百人もの記者をどこで受け入れるのか」。世界中の視線が集まり、「とにかくアイスランド全土にとって、大忙しの時期となった」とパルソンさんは説明した。
「ソ連とアメリカの間で大きな取引が成立するのではないか」という期待が集まり、「あのドアの向こうで、一体どのような話し合いが行われているのか」。世界中がこの建物のドアに注目していたという。会談は、数日後に署名された非常に重要な条約の基礎とった。
「このテーブルで、レーガンとゴルバチョフが話し合っていた」とパルソンさんが見せてくれた、長方形のテーブルがある奥の部屋。そのテーブルで、感動した参加者は平和の握手を演出した。
未来の平和を願うウクライナの若者たちの声
ウクライナのハルキウ出身のソフィア・デミデンコさん(2022年9月来日)は、歴史ある建物の中に足を踏みいれ、実際にどのようなことがあったのかを現場で説明してもらったことを、特別な体験と捉えていた。
「当時、冷戦は世界にとって大きな問題であり、大きな危機でした。いつの日か、ウクライナとロシアの大統領が、握手して合意できるような日が来ることを願っています」
ウクライナのハルキウ出身のタチャーナ・ヴァージンスカさん(2018年来日)は、ホフディ・ハウスを「ウクライナの歴史の一部でもあり、世界史の一部でもある」と表現した。
「冷戦がピークに達していた時代に多くの人々に希望を与えました。対立するふたつの国が、最終的に和平交渉に至るということは、私たちの将来にも希望を与えてくれます」
忘れてはならない、冷戦の記憶と核の危機
広島で6歳の時に被爆した田中稔子(たなか としこ)さんは、冷戦が終わるのではないかと誰もが期待した時代を経て、今はドナルド・トランプの時代ともなったからこそ、ホフディ・ハウスのような場所を「忘れてはならない」と語った。
「もう一度、核の危機を止めなければいけないということを、みんなで考える場所だと思うんです」
被爆者の決意と継承
小川忠義さんは長崎で1歳で被爆した。孫である長門百音さんと共にピースボートで被爆体験を伝えながら、毎年8月9日午前11時2分に撮影された写真を集める「忘れないプロジェクト」の運営もしている。
「ここで、少しでも核をなくそうという会談がされた場所に来ることができて、感動しています」と話す小川さん。被爆者が各国をまわり、被爆証言をすることで、核廃絶に「微力ながらも、少しでも貢献したい」と改めて決意した。
執筆後記
筆者は北欧で取材を始めてもうすぐ16年目になるが、気づいたことがある。北欧のリーダーや市民たちは「対話」で解決する重要性を常に繰り返し、世界が分断しているときに、話し合いを行う場を提供しようとする傾向があるのだ。「対話」「対話」と、北欧の人々はとにかくこの言葉を繰り返す。「論破」でも「抑圧」的なコミュニケーションもなく、「対話」だ。そして、小さい規模の国なりにできることをして、世界の平和に貢献したいとする強い意志がある。
アイスランドのホフディ・ハウスもその一例であり、国同士が対立しているときは、第三者が話し合いのテーブルを用意することの意味を改めて感じた。このメンバーでホフディ・ハウスを共に訪問することができたことを今後に生かせるように、北欧から対話の重要性を伝え続けたいと思う。