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【河内長野市】現在の像は2代目?観心寺御開帳を前に、駐車場に鎮座する大楠公像の由来を調べてみました

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

いまさらながらのことですが、観心寺は河内長野を代表する寺院のひとつですね。空海が北斗七星を勧請したという歴史もさることながら、最近ではかつて子院だった庫裏が、2か月前から予約必須の人気の精進料理店(観心寺KU-RI)になり、マルシェや節分などのイベントはいつも大盛況です。

京都国立博物館の特別展で特別の許可を得て撮影した如意輪観音のレプリカ
京都国立博物館の特別展で特別の許可を得て撮影した如意輪観音のレプリカ

しかし、やはり観心寺の目玉と言うべき時と言えば、年に2日間だけ行われる本尊・如意輪観音の御開帳ではないでしょうか?

画像提供:観心寺
画像提供:観心寺

私も一度本物を拝見したことがありますが、国内外にある他の仏像とは明らかに一線を画した不思議な秘仏です。

過去の御開帳の日の様子
過去の御開帳の日の様子

今年も例年同様に4月17・18の両日に行われる観心寺(外部リンク)から発表がありました。下に引用します。御開帳の日は観光バスで来る人もいるほどなので、平日ですが多くの人で境内がにぎわうような気がします。

(国宝)御本尊如意輪観音像の御開帳
日 程:令和6年4月17日・18日
受 付:9:30~16:00
特別拝観料:1000円
・両日とも8時半より、整理券付き拝観券を販売開始いたします。
・秘仏公開の金堂には9時半から30分毎に100人限定で入堂していただきます。
最終16時、閉門17時
宝物館(霊宝館)は8時半から入館可能です。

そして観心寺でもうひとつ忘れてはいけないのが、楠木正成ですね。境内に首塚があり、毎年5月に楠公祭が行なわれるなど、観心寺とは縁のある中世の武将です。私は入口の駐車場の所にある楠木正成像が結構好きで、観心寺に行くたびに必ず見ます。

ところで縁があり、先月末に東京に出張してきたのです。その際にどうしても見ようとし思ったのが画像の皇居外苑にある楠木正成像でした。上野公園の西郷隆盛像と靖國神社の大村益次郎像と合わせて「東京の三大銅像」とのこと。

この像のことを調べると、愛媛県にあって、新居浜市と住友グループを生み出したとされる別子銅山200年記念事業として献納された像で、1891年に当時の東京美術学校(現:東京藝術大学)が依頼を受けて製作したそうです。

元となる木彫の原型に3年をかけ、さらに部分ごとに鋳造して組み合わせて完成させる「分解鋳造」という方法を日本で初めて用いたそうで、10年近くの歳月をかけて1896年9月に銅像が完成。1900年7月に台座が完成しました。

大きさを調べると、高さが約4メートル、台座を含めると約8メートルあり、観心寺の正成像と比べても大きな像であることがわかります。青銅色をしていて迫力がありますね。

銅像の横にあるのが、楠木茶房という売店です。河内長野や富田林、千早赤阪村ならこういう名前のお店が普通にありそうですが、東京の中心で見ると不思議な気がしました。夜行バスで朝に到着した直後に来たために、まだ河内長野にいるのかと錯覚してしまいました。

皇居外苑の正成像に対して、小さな正成像も少し前に南河内で見ていました。千早赤阪村役場の前に鎮座していた像です。

千早赤阪村は楠公誕生地や鎌倉幕府軍相手に戦った千早や赤坂の城跡があるなど楠木正成の本拠地なので、役場の前にあっても違和感がありません。

大浦さんという方が寄贈者になっていますが、皇紀2600年ということは1940年(昭和15年)なので、実際には相当古いことになります。

さて、観心寺の楠木正成像を見てみましょう。いったいどのくらいにできたものとか調べてみましたが、皇居外苑の正成像のようには情報があまり出てきません。

少なくとも台座が古いのがわかります。皇居外苑や千早赤阪村の像のように「楠木正成像」と書かずに「大楠公」と書いてあり、それも字の配列が今とは反対方向からということは、戦前のころのものというのがわかります。

さらに調べると、ようやく出てきた情報として、台座には「大楠公 昭和九年七月十二日 植田謙吉書」との銘板があるそうです。ただ実際にどこにあるのか、一段高い場所にあり台座によじ登ってみるような状況ではないように思いました。

ところが、先日、駐車場のある所から大楠公像の前まで上れる石段があることを発見してしまいました。

石段を上がると高いところに出てきます。そして大楠公像の前に行けるので、そこに向かいました。

そして大楠公と書かれたところの正面に来ました。左横の小さく書かれた文字を注目してください。

拡大すると、確かに「昭和九年七月十二日植田謙吉書」と明記していました。

ちなみに銘板に出てきて「大楠公」と書いた植田謙吉は陸軍大将にまでなった軍人ですが、ノモンハン事件(1939年に当時の満洲国とモンゴルとの国境を巡る紛争で、日本とソ連も紛争に関わった事件)で、責任を負って失脚したそうです。

1934(昭和9)年に像ができたのは翌年の「大楠公六百年祭」を記念したからです。ところが情報によれば、太平洋戦争時の金属類回収令で供出されてしまい、いったん像が失われたそうです。ちなみに皇居外苑の正成像は免れています。

台座だけが残されたようですが、情報によれば戦後の1974(昭和49)年に再建されたそうなので、その情報が正しければこの像は2代目となります。

そして、正面から見て右横にその証である「再建の記」と称された銘板を見つけました。有志の協賛により再建したことを、桧尾山主 行善(当時の観心寺の住職?)が合掌し、九名の発起人の名が記されています。

今まで一段下から見ていましたが台座のある位置まで上がって拝見すると迫力が違います。

こちらは楠木正成の愛馬と伝わる千早丸でしょうか?皇居外苑でも見ましたが、観心寺の像は間近で見られましたので、馬の表情も良くわかります。

角度を変えて撮影すると別の迫力があります。もし生きていたら瞬時に馬の脚に踏み倒されそうな位置での撮影です。

ということで、観心寺入口の駐車場前にある大楠公像について調べてみました。駐車場前に堂々とした姿で鎮座していますので、もし御開帳に行く予定があれば、帰り際に大楠公像に足を止めてゆっくりと眺めてみればいかがでしょう。

観心寺入口にある大楠公像

住所:大阪府河内長野市寺元475

アクセス:南海・近鉄河内長野駅からバス 観心寺バス停下車徒歩3分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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